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2013年3月25日月曜日

大人の読書感想文


大人の読書感想文

子供の頃学校で夏休みの宿題に必ずと言っていいほど読書感想文の提出を求められた。
12.3歳の子供が本を読んで書くのだから、そこには12.3歳の経験からしか物語を読み解くしかないのだが、艾年を過ぎてもう一度読み返すとなるとそこには50年を超えた経験と知識が含まれる。もっとも全てにおいて経験と知識が優位だとばかり喜んではいられない。少年の頃のキラキラした夢や希望が滓に沈んでしまったことだってある。
友人が本を薦めてくれた。私よりずっと年上の先輩であり友人と言っては失礼にあたる先輩であるが、いつも私に知の刺激を与えてくれる。この年になって嬉しい限りだ。
紹介してもらったのは四方田犬彦の「ハイスクール1968」である。著者の事もこの本も読んでなかった。しかしながら、矢作俊彦は読んだことがあった。彼は息子の学校の先輩でもあり、歯に物着せぬ彼の物言いには好き嫌いが分かれるであろうが、私は好きである。実はこの四方田犬彦も同学なのである。
先輩よりお借りした文庫本を一晩で読了した。尤、推薦された当日に新書を発注していたのだがまだ届かなかった。(私は本にマーカーや印を付けて読むことがあるので)新書と文庫版では装丁が異なるが、私としては文庫版の表紙に使われたモンキーパンチの絵柄の方があっていると思うが。
その文中に庄司薫著の「赤ずきんちゃん気をつけて」が登場する。(頁163)実はこの本は私が高校生の頃、友人たちと愛読したベストセラーだった。恐らくクラスの中でこの本を読んだことのない者はいなかったのでないだろうか。私は彼より6つ年下なので彼が読んでいた5.6年後に読んだ計算になる。ところがこの本の感じ方が全く違うのだ。彼は最初すっと受け付けなかったと書いている。ところが私達(少なくとも私)はこの本に大いに共感し、本の主人公に自分たちを投影していた。ところがあれだけ愛読した庄司薫の3部作は数回の引っ越しの間に無くなってしまった。結局、先の矢作俊彦著「ららら科学の子」「赤ずきんちゃん気をつけて」も購入して読むことにした。つまり、3冊を併読した訳である。
私は息子が通ったのである程度分かるようになったが、あのような学校があること自体知らなかった。私の育った市では進学校といえども1年に一人東大に受かれば良い方で、それくらい東大は遠い存在だった。だから毎年120名程度の生徒数から100名近い東大合格者を輩出する学校など考えられなかった。数でこそ開成や灘に負けるものの生徒数の絶対数に比すればダントツの合格率である。
四方田犬彦の「ハイスクール1968」の書評の中には、このような知が存在する事を評価し、彼の優秀さに驚嘆する読者も多いようだが、今の教駒(筑駒)も同じようだから私は驚かなかった。当時も今も変わらずに各進学校の一握りのトップが集まる。彼も言っているように中学組と高校組は確かに分かれる。高校組は将来の希望が東大への進学であるのに対し、もっと詳細な設計図を公言する。つまり東大は経過の一つに過ぎないのだ。
数学が出来る人間は物凄く出来る。息子を見ていても大数、数オリを中学から解いていたし、数オリでもメダルを獲ったが、それでも上がいると知り、数学への道は諦めた。四方田犬彦も出来たであろうが、そんな中の一人だと思う。
彼は下馬から浜田山の100坪の家に引っ越したと書いている。彼は近くの三井のグラウンドとか新日鉄のグラウンドの入場券を何とか手に入れプールで泳ぐのが好きだったと書いている。奇遇だが私はそこでアルバイトをしていた。企業の保養施設だから社員やその家族が使うのは当然であるが、彼のように一人でやってきてプールサイドで本を読み日がな水泳と日光浴を楽しむ若者をときおり見かけた。彼らは決まって自分は特別だというオーラを放っていた。私は労働者階級として彼らを観ていた。
息子の通っていた頃の筑駒生の家庭は彼の時と同様、裕福な家が多かった。そんな彼らもこの学校に来ると勉強が出来なければ始まらない。逆に言えば、そこそこ勉強が出来た位でここに来ると大変な目にあう。これは教師も同じだ。全ての事はここに収束される。
息子のように全くの運動音痴でも勉強が出来ればなんとかなるのだが、逆は否なりなりなのだ。彼が勉強をそっちのけで遊び呆けていたのも、私にはエクスキューズに感じる。じゃお前はどうなのかと言われれば、私も大いにエクスキューズしたのだから彼を糾弾するつもりもないし、彼の行動には共感すら抱く。ただ、いえるのは井の中の蛙ということだ。彼も私も。
本書の中に出てくる映画批評や文芸評論はどうでもいい。何故なら、それらはほとんど後天的に知識の後付けだからだ。
本書の中にもう一つ重要なテーマが隠されている。それは音楽である。彼は幼い頃クラシックを聞いていたと書いていたが、その後、マイルスデイビス、コルトレーン、ビートルズに変遷していく。この音楽趣味が好き嫌いは別にして、とてもポピュラーだと思う。
つまり万人が愛した音楽なのだ。読んでいた本や彼が観た演劇や映画の内容に比べるとあまりに普通なのだ。実はこれこそ彼を読み解くカギなのかなと思っている。
もう一つのこの本の楽しみ方は当時の世相が散りばめられている点である。もっとも彼とは6歳離れているので全てが同じ時期という訳ではないが、私も渋谷の田園には行った事があるし、私が就職を決めたのも当時の西武のアバンギャルドさに惹かれてのものだった。西武のB館の地下のBE-INは忘れられない。ファッションに興味を持ったのもあそこからだった。
では彼とはこうした事物を共有しているのに何が決定的に違うのだろうか。前出した「赤ずきんちゃん気をつけて」が私にとってすんなり受け入れられた理由はその何年間の間に大きく潮目が変わったからだと思う。私が高校の頃には学生運動は急速に下火になり、高校2年の時に東京を訪れた際、大学には学生運動の姿は無かった。無かったと言えば嘘になるが、私立のいくつかの大学にプラカードが立っていた程度である。
氏も書いている通り、「赤ずきんちゃん気をつけて」はドライフールの所業だと思う。庄司薫は既にその当時、攻撃的にわめき散らし周囲を罵倒する全共闘がビターフールつまり道化だと看破している。だから数年間の遅れが私達を十分承知させていたのであると思う。
渋谷の街も変わった。東横線の駅舎は地下にもぐり、プラネタリウムはとっくに姿を消した。西武のA館とB館も当時の面影は観る由も無くつまらなそうな大人の空間になってしまった。アルバイトでカウンターを打ち続けたパルコパート1とパート2の交差点もパート2はなくなり、行きかう人は全身ユニクロづくめだ。
姿を消してしまう前に、百軒店の階段を上ってムルギーでランチでもしようか、それとも暗くなってから麗郷の蜆のにんにく醤油漬けと腸詰で一杯やりながら当時を思い出して定点観測してみるのも悪くないかもしれない。

音楽はレディマドンナからサムシングに変わったところだ・・



2013年3月21日木曜日

私が携帯電話を持たない理由


携帯電話が普及する前、自動車電話というものがあった。そう過去形。黒いアンテナをトランクリッドにちょんと立たせて一目でそれを持っていることが分かった。中には電話を取り付けてないのにアンテナだけ付けている人もいた。当時は運転中の電話も法律で禁止されている訳ではなかったから運転中堂々と電話を掛けていた。危なっかしくてたまらない。あるとき私は自分の車のそれが不格好であることが気になった。それ以来外してしまった。それ以来電話とは縁のない生活である。
考えてみると本当に急用というのは無いものである。今は地図や所用時間の検索で利用するので持ち歩いているが電話としてはほとんど使っていない。だから最初から機内モード。
もっとも、そんな行動の陰には二つの事があると思う。ひとつはある新聞記者の記事を読んだ事が大きく影響しているからかもしれない。

それはその記者がまだ駆け出しだった頃、尊敬するプロ棋士の自宅に取材に行ったときのことである。プロ棋士は記者に会うなり、今日は1時間あなたのために時間を作りました。何でも聞いて下さい。というと電話線のコンセントを抜いたというのである。記者は驚くと同時に、自分のためだけに時間を作ってくれた事に感激するとともに、自分がそのように今まで取材をしていたのか顧みて恥ずかしくなったという話である。

もうひとつの原因は電話では中々準備が出来ないということだ。何の準備かというと話す内容の準備である。私は手紙を書いてもその日には出さない。一晩考えてから出すことにしている。商談についてもそうだ。相手との交渉についてあれこれ逡巡する。これが電話では出来ないのだ。だからビジネスに電話が必要と言うのはよほど頭の回転が速く、瞬時にあれこれ考えることのできる高速CPUの頭脳を持ったご仁か、はたまたよほど何も考えずに話している人だと思う。私はそんな能力がないのだから敬遠する理由はある。

やはり目の前に足を運んで会いに来てくれた人が最優先されるべきである。電話はその大切な時間を断絶させる。私のところに来る人では滅多にいないが、若い営業マンの中には携帯電話の電源を切らないものもいる。こういう人には次から私は会わないから良いが、職人の中でも仕事中しょっちゅう電話が鳴りっぱなしの人がいる。こういう手合いは決まって仕事が出来ない。人に会っている時くらい携帯電話の電源を切る。こんな簡単な事が出来ない人間が本当に多くて困る。えっ、私はメールだって?それだって同じでしょ。人に会っているのに携帯のメールをちらちらチェックしている人は同様に失礼な輩だと思うが、残念ながら私の一番近くにいるのでお話はこの辺りにしておこう。その人とはビジネスはしませんからまあ仕方ない我慢しようか・・ひとりごとですから・・
 
 
 


2013年3月19日火曜日

腸詰 台湾料理 龍の髭 麗郷



腸詰 台湾料理 龍の髭 麗郷

30年近く前から宇田川町には台湾料理の店があった。しかし正式には台湾料理と言うジャンルはないらしい。何故なら中国本土から台湾に移住してきた人達の出身はバラバラでそれらが台湾に定着し台湾料理と呼ばれるようになったから、大元はそれぞれルーツがあるということになる。

確かに友人が関わっていた新幹線のプロジェクトの終了と成功を祝して台北に行った時にも四川料理、広東料理、北京料理と何でも揃っていて本場の味だった。

話を渋谷に戻すと、そんな台湾料理店の中でも先輩によく連れて行ってもらったのがこの龍髭こと龍の髭と麗郷だった。この二つは今も現存している。

もう一件「はごろも」という小さな店が渋谷にあった。ここは中華粽と腸詰が有名だったが今は痕跡すら見つからない。どの店も本格的な味の差こそあれ美味しい。特に好物なのはその中でも腸詰である。これをアテにビールを飲めば最高である。

もっとも記憶が確かならば、前者の方が香辛料控えめであっさりしていた記憶がある。
この頃は様々な駅前に腸詰屋なる店が増えた。時折、戴くのだがまあ私に言わせれば70点と言ったところか、もっともこの二つの店が抜群にうまいのだけど。

横浜に移ってから宇田川町は遠い外国である。当時はミウラ&サンズを覗いて、麗郷で良く食事をした。今は中々行く機会が無い。一度、横浜そごうの京華楼で腸詰を買った事がある。中々の逸品だったがどうした訳か取り扱わなくなった。残念である。

腸詰には葱は欠かせない。よく、完ぺきな白髪葱を供する店があるが、あれでは駄目だ。葱のツンと来る辛味とサクサクした芯の部分も加えなければ旨くないからだ。
箸で腸詰を掴み、葱をやわら乗せて口に運ぶ。好みで辛油を付けて戴く、鼻腔に五香粉の香りと豚肉の甘みが広がる。

龍の髭で通販を予定しているようだ。もし開始したならばたっぷり買占め冷蔵庫でいつでも食べられるようにしておこう。だって旨い腸詰はそうそうないから・・・



2013年3月18日月曜日

カンテラ kandelaar


カンテラ Kandelaar


私は息子の授業参観兼個人面談に一度だけ出掛けた事がある。息子が中学2.3年の頃だったと思うのでかれこれ8.9年前になる。


息子の担任が社会科の倫理、世界史の先生だった時だ。息子はオープンな性格なので学校であった事を色々と親に話す。そんな他愛のない会話で、息子の口からノーム・チョムスキー、スーザンソンダク、ウォーラーステインの名前があがった。どうして知っているのか尋ねると、授業で話していたからとのこと。


私も高校の時世界史を選択した、大学では教職も履修した。世界史であろうと、倫社であろうと高校生でも中々触れられない部分である。それをさらっと中学生に話している。

どのような人物か興味を持った。


そもそも驚いたのはこれに始まったことではない。入学早々、現国で出された課題が何回も突き返されてくる。私も息子と一緒に負けじと必死に考えたが埒があかない。その課題にはどうやら巧妙な仕掛けが問題と問いに隠されており、それまで優秀と言われた生徒の自尊心を利用した発奮作戦だったようだ。その先生は今国立大学の教授をしているという。


当時、社会科、現国、英語はなんとか息子に食らいついていたが数学なんぞはとっくのとうに諦めていた。もともと数字が好きでやっていくうちに難問を考える事が好きになり、数オリでも受賞した。すでに線形代数や幾何論はやっていて、複雑な漸次式も解いていた。


もはやお手上げである。そんなこともありその担任の先生には余計興味を持った。


授業は何も特別なものではなかった。生徒も緊張するでもなく普通に授業を聞いている。ただし、彼らは素晴らしく集中していた。本当に集中するには過度な緊張も伸び切ってしまったリラックスも駄目だ。肩の力を抜いて勁草のごとくしなやかに受け入れる姿勢が肝要だ。彼らのほとんどはこの勁草の如くであった。


授業が終わり、先生の研究室に入った。二人でひとつの研究室を与えられている。先生と面談するまでの間、研究室の書架を見渡した。それは大学のそれいやそれ以上の蔵書が壁一面の書架に並べられていた。先生との会話はこれといった事も無く世間話に終始した。


ただ、印象に残ったのは先生が「うちの学校の生徒の目標は大学に入る事ではないです。彼らがその先で伸びられるようにしておくことです。塾に行かなくても大抵の生徒は受かりますから。その先の伸びしろを作っておくことです」


暗闇では前に進めない。しかし、行き先を決めるのは自分だ。竹中平蔵氏に似たあの先生は今でも生徒の足元を照らし、伸びしろのある人間として生徒を送り出しているのであろうか。

久々にノーム・チョムスキー氏の対談本を読んで、今朝久々に氏のブログを読んだので・・思い出した。

2013年3月15日金曜日

オリーブと南風



なだらかな坂が南に続いている。その坂はずっと向こうで一度底を打ち又そのまま上昇し行き止まりの大通りにぶつかる。
康夫がここに引っ越してきたのは2年前だった。それまで康夫は川崎に妻と二人で暮らしていた。妻とは見合い結婚だった。結婚して今年で5年目になるが子供はいない。康夫は幼い頃母を亡くした。父はその後ずっと一人暮らしをしていたが2年前亡くなった。
康夫はその知らせを出張先の札幌のホテルで受けた。その数日前父と話をしたばかりだったのであまりの急な事で頭の整理が出来なかったが、死因は入浴中の心臓発作と言う事で痛みや苦しみは無かったとのことだった。それを発見したのは作りすぎた料理や土産物をよく持ってきてくれる囲碁仲間だった。その囲碁仲間によるとまだ体は暖かく、とても死人には見えなかったという。
康夫は札幌に一人で行っていたのではない。康夫には10年以上付き合っていた女性がいた。その女性は康夫が結婚する前から付き合っていたので康夫の妻の事も良く知っていた。一方妻はその女性の事を知らないのか、または全く無視していた。
女性は妻とは正反対な短髪でスポーティな女性だった。仕事はフリーのカメラマンであったがこの頃は有名な賞も獲り売れっ子カメラマンの仲間入りを果たしていた。仕事場は東京と札幌にあり、札幌出張の時には康夫のホテルで会っていた。
康夫はベッドから起き上がるとシャワーを素早く済ましホテルのフロントでチェックアウトした。女性は康夫より一足先にロビーをすり抜け、タクシーを呼んでいた。康夫は女性がタクシーに乗り込むのを建物の中から確認し、自分も空港に向かった。
葬儀はひっそりとしたものだった。父は上場企業の役員をしていたが退職してからは以前の同僚や後輩との付き合いも無く、せいぜいごく限られた地域の囲碁仲間と交流する程度だった。通夜の日に集まった来客も帰り、居間に設置された棺に入る父をみて、体が一回り小さくなっていることに気付いた。その時妻が横で「ここに住もうか」と言いだした。
あまりの突然な事だったので康夫は事の成り行きが理解できずにいたが、どうやら本気のようだった。
康夫には兄弟はいない。ただ、今までは妻は子供が出来るまではどうしても同居したくないと言い父の所からもさほど遠くないこの沿線に暮らしていた。
妻は福島の浜通りの出身だった。大学は東京の短大で英文学を学び医療機器メーカーに就職した。そのメーカーは康夫の取引先だったので、上司から見合いの話が出た後は、とんとん拍子に結婚まで運んだ。結婚式は都内の中規模な宴会場で行われた。いまどきの豪華な式ではなかったが出席者は親族と双方の会社の人が中心だった。康夫は結婚式の当日になってもその女性が自分の妻となることが不思議だった。
父の住むこの家は環状七号線の外側の住宅だ。以前は大きな邸宅が立ち並んでいた高級住宅街であったが、多くの家が相続で切り売りされ、新しく出来あがる家はどれも小さくなっていた。父は取り立てて植物に興味があった訳ではないが、南側に面した猫の額ほどの庭にオリーブを植えていた。苗木から育てたその木はどんどん大きくなり人の背丈をゆうに超えていたが、何年経っても実を付けなかった。実を付けないことに父はどうしてだろうと口癖のように呟いてはいたが、敢えて深く調べようとはしなかった。
父はわずかであったが少しばかりのお金を残していた。康夫はそのお金を使って細切れだった4LDKの間取りを3LDKに変更した。浴室もキッチンも全て新しくした。
ただ手を入れなかったのは庭だった。
妻が二階から白で濃いブルーに縁どられたダンスクのマグカップ2つ持って降りてきた。脇には何かのパンフレットを挟んでいた。康夫は陽のあたる縁側で妻からマグカップを受取り、横に置いたパンフレットに視線を移した。パンフレットは近くのレディースクリニックのものだった。
庭のオリーブに目をやると、白い葉裏が西日に照らされて輝いていた。その逆光の中に目を細めてみると小さな黒いものがある。
南風が強くオリーブを揺らした。黒いものがオリーブの実である事が二人にははっきり分かった。妻が康夫に今年は白い花が咲いていたと言った。康夫は知らなかった。




2013年3月14日木曜日

環境問題について



私は元来のひねくれものなので例え世の中で話題になっていようとあまり取り合わない事が多い。何故ならマスコミや評論の多くはその表層しか検証しておらず、確かだという証拠がある事は滅多にない。そのあたりは息子も似ていて、傍から見れば何んと可愛らしくない人間か。

暫く前に不都合な真実という本が出版された。出版にあわせて南極の氷が崩れ落ちる映像が流され、地球温暖化が進行している事を象徴的に主張していた。

人々はこぞってエコロジーを口にし、如何に自分たちが正しい事をしているかのように競争った。企業はこの風潮を利用し新しい商品を売り付ける。新しい製品を購入する事はその商品そのものが地球に附加をかけて作られたものである事は無視される。

原発についてもそうだ。原発は悪だと決めつける。今までその恩恵を受けていたのにひとつ事が起こるとあたかも自説のように唱える。確かに原発に事故が起こればその影響は甚大だ。しかし、他の発電の方がはたして地球全体に附加が少ないと言えるのか。

この点を考慮して生理学者であり人類学者のジャレド・ダイアモンドは原発を続けよと言う。残念ながらマスコミはこうした論評を好まない。

地球が最大の環境変化を起こしたのは恐竜が絶滅した隕石の衝突である。環境の変化は外的要因による一斉に起る。漸次的ではない。歴史が証明している。

原発事故が起きた時にマスコミな度々登場して、日本から脱出せよと言い続けていたご仁は今どうしているのだろう。多くの国民に不安を煽り被災地の復興を遅らせた罪はマスコミも同様に重い。

断っておくが私は原発賛成でも地球温暖化推進でもない。ただ意見を述べるにあたって論理的検証を行うべきだと言っているのだ。理論的説明も無く自説を強要するのは宗教と同じだ。

以前はそういった言説を流布するのは特定の人だった。いつの時代もそういう人はいたのだから。それが最近はごく普通の分別のありそうな人がそうした言説にのっかる風潮がある。何か問題が起こると極端な方向に振れる。分かりやすい二元論に乗っかる人達だ。困ったものだ。

私は問題が生じた時に最適解を掲げる人間を信用しない。いつの時代も部分的最適解は全体としての最適解にあたらないことが多いからだ。木を見て森を観ずの例え通り。

私は自分に問う。この問題は自分にとって時間が味方しているのかしていないのか。この年になれば味方している事はそう多くないが、そんな時こそ早計に最適解を出そうとしていないか熟考する。時間に制約されなければ真の難問は乗り越えられるが、有限の中では解は生まれない。

環境問題と言う言葉を聞いて私がひっかかるのは、人間の奢り高ぶった姿が見えるから。
そもそも人間が環境を変えるという言葉自体可笑しい。震災を見ても分かるように地球にとって他の動物同様、ちっぽけな存在なのだ。ビバリーヒルズの大豪邸に住まう人も、蜑戸のような質素な庵に住まう人も一度地球が牙をむけば成すすべはない。

人間はもっと謙虚になるべきだ。この地球に住まわせてもらっているのだから。




2013年3月13日水曜日

小泉構造改革とは何だったのか


小泉構造改革とは何だったのか

今ほど民意が失われた時代はなかったのではないか。当時の小泉首相が郵政民営化を訴え国民的支持を集めたのは周知のとおりであるが、その後の自民党はその謳い文句さえぐずぐずだらだらとひっくり返して郵政民営化を白紙にしてしまった。子供の日直のように目まぐるしく首相は変わり、長期的政策は何一つ行われてこなかった。その結果、国民は自民党に嫌気がさした。そこで民主党を支持した。しかし、その民主党はそもそも寄せ集めの党であるから、政策の違い、いやいや政策ならまだしも己たちの権益の確保のため同党内で相克した。その後の国民は安部首相を支持したのではない。自民党を支持したのではない。他に投票できなかったのだ。ところがどうだろう、ブレーンが変わった途端に日経平均が上昇し、円安が加速した。アベノミクスの効果だろうか?いやいやそんな事はない。結果論。レーガノミクスの時もそうだった。その前から伏線はあったのだ。新自由主義は小泉首相同様、結果批判の対象にされている。フリードマンをはじめとするこの手の経済政策の騎手はボロボロである。経済学の分野でも公共経済学や厚生経済学という言葉がよく使われる。しかし私は反グローバル主義を掲げる経済学者を信用しない。日曜日の朝番組に出演しているK氏や彼と同学のJ氏など声高にこの事を訴えている。彼らは息子の学校の先輩ではあるが何故か静的思考だ。どうみても日本がスェーデンのようになれるわけがない。レーガノミクスの時に言われ続けてきた大企業が利潤を生めば、そこで働く社員の消費も拡大し効果は循環的に及ぶとしたトリクルダウン理論は後で嘘だった事が分かった。そもそも、そんなに調子の良い事があるわけがない。はじめからレトリックだったのだ。

グローバル主義は好き嫌い関係なく、すでに始まっている。私達がユビキタスの社会を目指したときからはじまっているのだ。宇宙の膨張と同様に附加逆的でその進行を止めることはできない。水が高いところから低いところに流れるごとく、富のその流れはきまっている。大きなイノベーションの渦中にいるとその事が分からない。今まさにその流れの中にいるのではないか。19世紀のパックス・ブリタニカから20世紀のパックス・アメリカーナの国家の時代は21世紀の今終焉しようとしている。民族、国家、政治、宗教我々には多くの壁があった。この壁によって安全や利便性を享受してきたし、一方で様々な活動を阻害してきた。その壁が今崩れようとしている。鈴木健氏によればその後の社会はなめらかな秩序を特徴とするらしい。前述した国家、政治、軍隊などは敵となる。鈴木健氏はサルガッソーなる集団を率いる。サルガッソーとは魔の海域バミューダトライアングルのこと。サルガッソーというホンダワラの一種が海に漂って行く手を阻む。この海域は表面にはプランクトンがおらず海底に集積していと言う。透明度は60メートルを超える。

話が脱線した。

小泉構造改革が失敗だったのは唯一途中で止めたことだという人とがいる。私も同意だ。

この改革により格差が拡大し、弱者が輩出されるのは制度的問題だという。そうだろうか、制度と言うより社会そのものをひとつの細胞に例えるならアポトーシス(apoptoisis)が始まりかけている。自身による内部崩壊の一歩手前まできているのではないか。それを制度的問題に置き換えるのは経済学者の浅はかさだ。

数年前、三浦展氏が「下流社会」を上梓した。下流社会は流行語にもなった。

この下流化の現象は今も進んでいるのだろうか。答えはイエスでもありノーでもある。情報というものが簡単に手に入れられるようになった。しかしこの事はテレビのニュース漫然として眺めているような訳にはいかない。自分で関係性を成立させ、積極的に情報を掴んでいかなければならないからだ。その意味においてそうしているものとそうでないものの情報格差がそのまま経済格差に繋がる。情報貧乏が存在するのだ。

もちろんグローバル化を止める唯一の方法がある。それは鎖国だ。お隣の国のように国際社会は関係ないとばかり、一切の門戸を閉ざしてしまえば良い。でもそんなことしたら国内で暴動がおこることは必至である。人間は一度便利さを手に入れたらそれを簡単には手放さないのだ。