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2013年4月5日金曜日

初めてのハンバーガー


初めてのハンバーガー

こんなに悪食なのにハンバーガーにはてこずる。どうやって食べたら良いのか分からないのだ。もっともペッチャンコの一口で食べられるような代物はそのままパクリと大口を開ければいいのだろうけど、これ見よがしのベーコンだのアボガドだのが幾層にも積み上げられたハンバーガーにはもう降参である。一度、順番に上から食べた事があるのだが、まあなんていうかハンバーガーではなく、ピクルスはピクルスで酸っぱいし、ベーコンはベーコーンで油っぽい、パンはパサつく別の物を食べているようで美味くなかった。
もっともこれも元をたどればハンバーガーなるものを食べた原体験にあるのかもしれない。
私の育った北関東の街はあの当時は東京より10年は遅かった。水洗トイレになったのは私が4年生のときだった。薪の風呂からガスに変わったのは中学になってからだった。
おしなべて万事がそんな塩梅であった。(私の家だけかもしれないけどね)
そんな事情もあってマクドナルドが出来たのはずっと後だった。今調べてみたら50号線の街道沿いと郊外のショッピングモールにあるようだ。いずれにしても私の高校生までは無かった。
初めてハンバーガーを食べたのは高校1年の時だった。高校の校門を出て右手(たぶん)に自動販売機があった。そこをミミズクと呼んでいた。その自動販売機の一つにハンバーガーがあったのだ。
確か100円だったと思う。100円をコインの投入口に入れると、チャリンとした音と同時に透明のガラスケースの一つの箱からハンバーガーが滑り落ちてくる。
ハンバーガーを包んでいる紙は油で滲みて、ほんのり暖かいパンと潰された肉は何の味もしなかった。ただピクルスの酸っぱさだけが際立っていた。食べようと思えば10個は食べられる年齢である。量は少ないし高ければ買わないのだから下火になっていつしかボックスから消えていた。
近接する商業高校の横にはインスタントラーメンを作って食べさせる食堂があった。
壁には味の大関、サッポロ一番、サッポロ一番味噌ラーメなどとメーカー名で書かれていた。50円程度だった。味噌ラーメンが少し高かった記憶がある。
もっとも繁華街(当時は)にあった、コタンという札幌ラーメンの店は私達の餌食になっていた。大盛りを食べるとただになるという情報が行き渡り、お腹を空かせた16歳の男の子が押し掛けていた。店主もそこで一考しそのチャレンジは平日の昼間の時間に限定した。しかし私達にとってそんなハードル朝飯前だった。授業を抜け出し店主の前に現れた私達はしたり顔だったと思う。結局、暫くしてそのサービスは無くなり、店も無くなった。この店を潰した一人は間違いなく郷里にいる脳外科医のSであると断言する。
話を戻そう。実は先日立石に行った。もちろん昼間だから名物の居酒屋や焼き肉と言う訳にはいかなかった。簡単に食べられる物を探していると奇妙な看板を見つけた。どうやらハンバーガーを売っているらしい。御世辞にも綺麗とは言えない建物であるが、そこには、なんとハンバーガーの自動販売機と書いてある。37年前のミミズクの自販機バーガーがフラッシュバックした。
早速オーダーをしてお金を入れるとなにやらその箱の後ろで人が動いている。完全人力自販機である。私はハンバーガーをもらい、車のドアを閉め、おもむろに包みを開けた。そして一口食べたその味は37年前のミミズクの味だった。立石に行かれたら見つけてください。無くなる前に・・




2013年4月4日木曜日

檸檬 画翠


檸檬 画翠

少年にとっての都会の入り口が浅草だったならば、その道程はお茶ノ水だった。
高校1年生の夏休みに予備校の夏期講習で上京した時の事だ。
叔父の家は杉並にあった。多くの下職を使いながら建築関係の仕事をしていたその家は朝から晩まで人の出入りがある賑やかな家だった。二人の子供はまだ幼く少年とはだいぶ歳が離れていた。
少年はひと夏叔父の家に居候させてもらった。少年はその叔父の家から予備校まで毎日通った。叔父の家は五日市街道沿いにあり少年は近くのバス停からバスに乗り中野駅に向かった。街道は区画整理の前で、大きなバスは軒先をかすめながら猛スピードでカーブを曲がっていった。関東バスの運転が荒いのは有名だった。
少年は夏休みに入る前に担任の国語教師から言われた事がずっと気になっていた。
本を読まないものは自分の言葉しか持たないものと同じで、入試に出るような文章を理解できるわけが無いといって30冊近くの小説の名前をあげ生徒に指示した。
少年はそのほとんどが読んだことが無かった。
予備校の入学手続きを終えた少年はお茶ノ水の大きな書店で20冊の文庫本を買った。
予算はそれ以上でもそれ以下でもなかったから。
少年は20冊の文庫本を抱えて、駅前の喫茶店に入った。少年は初めて檸檬をレモンと読むことを知った。大きな黒い鞄やイーゼルを持った美大生と思しき人たちで店内は一杯だった。少年はアイスコーヒーを頼み、クリームを一杯に入れてかき混ぜもせず、またたくまに飲みほした。少年はもちろんパリいったことも見た事もなかったが、パリには学生で賑やかなカルチェ・ラタンと言うところがあり、さしずめこの辺りが日本のそれだと友人から教えられたことがあった。
賑やかな学生たちを見ていると何となくそんな気がした。
少年はその揺れるバスの車内で吊皮につかまりながら行き帰りで1冊の本を読み終えようと決心した。最初は全然できなかった。それより今考えるとよく車酔いしなかったと不思議である。それでも1週間もすると目が慣れてきて1冊を読みおえる事が出来るようになった。
授業が終わったある日、誰が誘った訳でもなく仲間とすずらん通りのパチンコ屋に入った。しばらく球の行方を追っていると、一番背の低い仲間が警官から質問を受けていた。歳を聞かれても正直に言わないように暗黙の了解をしていたつもりだったが、警官から干支を聞かれあっさりばれてしまった。結局、仲間全員、交番に連れて行かれた。
当時は東京の警官はさすが機転が効くと驚いていたが、学生運動のさなか高校生が煙草を吸い遊興所に出入りすることが多くなり、警察全体でそうしたことが一つの決まり文句として一般化したと後で知った。一人の警官の機転ではなかった。
その夏はあっと言う間に過ぎ去った。夏期講習の午前部は色々な学校の生徒がやってくる。少年の様な田舎の県立高校生からみれば麻布や開成といった高校は全く別次元だった。
授業のテストで難問の数学の時間があった。クラスの最高点は確か30点だった。もちろん満点は100点である。隣の麻布の生徒の答案は25点だった。その生徒はこれでは親に見せられないと苦虫をつぶしたような顔をしていた。
少年の点数は7点だった。その夏、理系へ進学することは諦めた。
夏期講習を終わり実家に戻る頃には幾分涼しくなっていたが、少年の腕には日焼け跡が残っていた。何故なら休みの日は叔父の建築の仕事を手伝っていたので結構日焼けした。
自由が丘の現場だった。公園の横の瀟洒な家だった。叔父たちと一緒に大木の根を掘り起こす仕事で球の様な汗を噴き出しながら泥だらけで仕事をしていた時の事だった。施主のトイレを借りようとしたら、施主から汚いからと断られた。
少年は大人の事が少しわかったような気がした。
電車が新桐生の駅につく頃には少年は大人になっていた。その秋、バスケットの部活を辞めた。仲間ともほとんど交際しなくなった。そして翌年の春2年生を迎えた。





2013年4月3日水曜日

コウシンソウ


コウシンソウ

少年は怖い夢を見た。べとついた真っ赤な大きな口をあけたナニモノかに飲みこまれる夢だった。少年は必死に助けを求めるがその声は聞こえない。次第に少年はそのナニモノかに飲みこまれ体の半分が溶けたところで、風の音で目が覚めた。
生ぬるい湿った夏の風が建てつけの悪い木製の窓からするりと抜けて室内に入り込んできてカーテンを揺らしていた。月の光も雲に隠れてあたりは真っ暗だった。
少年は明日、両親とハイキングに行く約束だった。少年はあまり乗り気ではなかった。
少年は長い夏休みを実家から1時間以上離れたこの山奥で暮らさなければならなかった。父親はこの山奥で作陶していた。窯はレンガで高くドーム状に積まれ少年が手を伸ばしても届かないほどのものだった。そのドームの形をした窯の周りには燃料の薪が同じように高く積まれていた。その薪の中からコオロギの声が毎夜聞こえた。少年はその薪の小さな隙間が嫌いだった。コオロギに限らず多くの森の魑魅魍魎が住み着いているからだ。コオロギはまだ良い。後ろ脚が異常に長くて体が縞模様の虫がいる。カマドウマという虫。少年はこの虫が薪に潰されたところを見たことがある。その死骸は胴体を真っぷたつに潰され、ドロドロした体液と一緒に無数の寄生虫が這い出していた。それ以来、この虫を触る事も見る事もできなくなった。
この窯のある建物には畳敷きの部屋があった。玄関が別に設けられこの部屋で食事や睡眠をとることが多かったが、徒歩5分程のところに土台が石で積まれた別の家を持っていた。父親がここで窯業を始める条件として街が与えてくれ町営別荘だった。その建物がある場所がマムシ沢と呼ばれて人が近づかない場所であることはずっと後で知った。
少年は別荘に泊ることがさらに嫌いだった。トイレは室内になく一度外に出なければならない。別荘の後ろの山の上には大きな岩が飛び出ていて、落ちてきたらひとたまりも無かった。夜になると山の中から無数の昆虫が僅かな家の光を求めてガラス窓にぶっかってくる。大きなスズメガは、バチンと虫ではないような気味の悪い音をたてる。少年はカーテンをしめて窓から出来るだけ離れた場所で寝ようとしたが寝つけるものではなかった。
翌朝、父親の白いファミリアに3人が乗り込み庚申山へ向かう。
非力な車はぜいはあと白い煙を出しながら砂利道を走っていく。庚申山は南総里見八犬伝にも登場する信仰の山だと言う事は子供ながらに知っていた。行く途中、カジカ荘という簡素な国民宿舎で昼食をとり、歩いて庚申山に向かった。
昼の森の中はうって変わって陽気だった。木々の間から光が漏れ、明るかった。頂上につく手前で、小さな花が群生している所を見つけた。両親ともその花の名前は知らなかった。ただ、薄紫色の花弁の色とその形から菫の仲間ではないかと口を揃えた。
夕刻に家に戻った少年は持ってきていた植物図鑑を開いた。その花はこのあたりにしかない花で「コウシンソウ」と書かれていた。少年はその花が「ムシトリスミレ」という食虫植物である事をその時知った。








2013年4月2日火曜日

天衣無縫 弊衣脱帽


天衣無縫 弊衣脱帽

28年前娘が生まれた時にこの二つの言葉が浮かんだ。「天衣無縫」はちょうどその数日前に見たイッセイミヤケのファッションショーがこの言葉を使っていたからだと思うがそのあたりの記憶は曖昧である。あのころ、お洒落とは無縁の私がファッションの仕事をしていた。といっても服を作ったり、売ったりするのではない。そうしたテナントさんとお話をする仕事である。そんな訳でショーの招待状をもらう事も多かった。

地方都市は都会とは別の仕組みがある事が分かった。東京に本部をおく多くのメーカーは中々地方まで目が届かない、さりとて売りたい。と言う事でメーカーの販売を代行する会社が生まれてくる。これがいわば販売代行という仕組みだった。今のようにネットにつなげば世界中の情報が手に入る時代ではなかったから、ファッションに興味のある人はこうした販売代行業者の特定の人(マヌカン)から情報を手に入れていた。

地方では縦社会が強い。高校を卒業しても先輩には頭が上がらない。ある販売代行はその事を利用して、未成年の後輩に大量の洋服を売って問題になった事もあった。
大人になって分別も持ち合わせオシャレをするむきはよいのだが、自分の給料の何倍も洋服にお金を掛け、挙句の果てに他から用立ててもらってまで購入する人を見ると、とても寂しい気持がした。そんな人を見ていたからかもしれない、人は表面ではない中身だと強く感じていたのだろう。

考えてみると私達の高校から大学への時代は屈折している。数年前まで青春の語り草のように喧伝していた学生運動はすっかり姿を消し、世の中泰平ムードだった。思想的な議論などあほくさいとばかり出来るだけ表面的な事に徹した。しかしそれをすればするほど青年の押しつぶされた反骨精神と情熱はアマルガムのように一切の物を溶かして、そのルサンチマンの炎は湖底に沈められ積み重なっていった。

その後、娘はどうだったのだろう。体力的な問題に突き当たり初めての夢を諦めた時の悲しさ、出来る弟との心の中の確執、親は平等に扱っているつもりでも彼女の心は穏やかではなかったろう。そして社会に出て数年が経過し結婚した。
今度は彼女の番である。親業と言うのは何ともやっかいな代物である。親である自分を投影し、こうせい、ああせいというのはご法度である。やってもいいが、必ず失敗する。

子供が自発的に成長するのを待つしかないのだ。

もう数日で娘に子供が生まれる。彼女も同時に母親になるわけだ。恐らくその時初めて妻の気持ちを知るだろう。これほどまでに慈しみ愛しいものはないと知るはずだ。そしてそれからが大変でもあり楽しくもある人生のスタートになるから。

孫に言葉を掛けるとしたら、娘に掛けたときと変わらない。しなやかで強い人間になってほしい。独りよがりでは駄目だ。打たれても、打たれても立ちあがるしぶとさと優しさが欲しい。そう勁草の如く。「疾風に勁草を知る」の例え。世の中疾風だらけだからね。



2013年4月1日月曜日

顕教と密教


 
 断って置きますが私は原発反対派でも肯定派でもありません。それぞれ条件付きということですから誤解のないように。
先日も某大手新聞社の方が、私のところにいらして今のマスコミの凋落ぶりに嘆いておりました。以前申し上げた様にマスコミは確実に「劇場化」が進んでいるようです。何か話題になるような事が起こると検証もせず、その情報ソースに向かう。そしてそのまま掲載するといった体たらく。経済部や政治部は以前からそうした川上での情報取得は見られましたが、今では社会部までも同じような取材方法を行うと困惑していました。福島の原発問題に関しては、どのマスコミもその構造的問題を言及していません。ただ、反対だとか危険だとか、はたまた安心だとの二元論に終始します。そして大衆は其の事で逃げ惑う小魚の如くあっちへ行ったりこっちへ行ったりです。
数年前、ある事がきっかけで、丸山眞男を読み返しました。私達が大学に入った頃には彼ははっきりいってあまり話題に取り上げられるようなことはなかったです。もう旬が過ぎたといった感じでした。もっともその彼を紛糾していた吉本隆明などは旺盛な筆致でせっせと本を出していたので、こちらの方を目にする機会が多かったのです。ところがいざ読み返してみると、彼の言葉の裏側には今の日本人がこうなってしまった、いやこうなると予測していたのです。「古層」という有名な彼の言葉がありますが、彼は日本人の内在性についても看破していたのです。
中東の問題を語る時に、キリスト教徒はユダヤ人がいるから問題がこじれるとユダヤ陰謀論を唱えます。だから今でも9.11は彼らが起こしたのだと噂している。何故でしょう。きっと彼らにはユダヤ人が起こしたのでないと論理的に説明しても納得しない。何故ならも彼らは苛立っているからです。9.11の問題とはいわば南北間格差の象徴です。その原因を作ったのは彼ら自身でもあるのです。しかしながらそれを自分たちだと認めるのは都合が悪い、だから少しだけ外側にいるユダヤ人の性にする。これこそがまさにイデオロギー的幻想に他ならないのです。
原発も同じでしょう。高効率で安全なエネルギー、先進国だから出来る高い技術力そう言われてその恩恵を受けて来た。それが、一度事故が起こると全て原発機関や国の性にする。そもそも、だったら何故、その前に原発反対しないのか、省エネを心掛け原発エネルギーは使わないと表明しないのか、まさに内在性を無視しているのです。
そんな無知の国民を擁護する訳ではありませんが、もちろんそこには情報の質と言う点で大きな問題があります。
一般の国民は前述したように安全だクリーンだと言われてきました。これがいわば顕教です。国民は理論的な説明より、この安全だよという呪文が好きなのです。
一方も一部のエリートは原発が危ない、問題があると知っていたのです。しかし、これは絶対に口外しない。いわば密教のようなものです。
この情報の構造的違いを理解することが今日日本の諸問題を考える上で重要になると思いますが、これが大変難しいのです。
全ての情報を国民に知らせれば良いと言う方がいますが、私はそれも危険だなと思います。
例えば公務員の削減、多くの国民はこれを支持します。特に非正規雇用のフリーターは自分の境遇との違いに声を荒げてこの事を主張する人がいますが、小さな政府にするということはそれ以上に福祉の幅を狭めると言う事になるのです。福祉にはある程度の大きな国家が必要になるからです。公務員を削減すれば、正社員は削減され非正規雇用が増える当たり前のパターンです。つまり公務員を削減しろというのは自らの首を絞めているようなものなのです。
原発問題もしかりです。原発を廃止するそれはお題目としては良いでしょう。しかしながら原発を誘致した多くの自治体はもし原発を誘致しなかったら当の昔に破たんしていた、そんなところがほとんどです。莫大な補償金と雇用創出によって何とか首を繋いできたというのが現実です。
丸山眞男はこうした一人ひとりの意見は正しくても、全体としては不合理な結果となる事を「合成の誤謬」と言いました。今の日本はこうした各論賛成、総論反対がまたはその逆が多いのです。私の親戚も石巻にいました。義父の出身は宮古です。今回の震災で大きな被害を受けました。最初は多かったボランティアも少なくなり、忘れ去られるのではと不安視する声も聞かれます。彼らはただ待っていると言う事に我慢できなくなり、自らで前に進むと決意した人もいます。この点では震災は天災であり国がもっと早く将来のグランドデザインを示さなければならないのにぐずぐずしている。
一方、原発はこの問題とは彰かに違う。原発の導入の歴史を考えても、敗戦後の日本の国家的問題として進めて来たのは彰かでいわば国家戦略。これを変えると言うならその先の新しい日本のエネルギー戦略を指示してからアクションを起こさなければならないのに、どこかの首相は原発廃止と唯我独尊でマイクを手にした愚行。
私の同期の三浦展氏は東北の将来について、今までと同じものを、特に箱モノ的街づくりはナンセンスだと言っています。その通りだと思う。
日本は東京から名古屋、関西つまり首都圏の一部を除けば、過疎化が進んでいます。人口減少社会というのは確実なものとなっているのです。さらに先進国である我が国の所得が高い事は明白であり、産業労働力の移転は必ず起こるのです。そしてグローバル化とはそうした富のあるものから無いものへの移転であるとチョムスキーは言っています。
日本はもはや盛りを過ぎ超成熟社会には行ったことを認識するべきです。アベノミクスで一時的に証券や不動産が上がったとしても本当に成長が無ければ世界は日本を見捨てます。日本の債権は海外ではないから大丈夫と言う人がいます。何故大丈夫と言えるのでしょう。世界マネーはそんなに甘くありません。借金は借金です。御破算にする方法はデフォルトのみです。その時こそ今のお金は紙くず同然となります。それを避けるには地道に毎月毎年返していかなければならないのです。
私は近い将来バブルの崩壊と同様に大きな金融アクションが起こると考えています。何故ならグローバル化が進んだ世界マネーはそんなに甘くないからです。自らの判断と責任において円という通貨の価値を根底から見直すべきかもしれません。
この文章を書くにあたって法政大学教授の政治学者杉田敦氏の著作を大いに参考とさせて戴いたことを付記させて戴きます。アルママーテルの服の下に隠れた賢者に相談してみましょう・・・




2013年3月31日日曜日

1978  新宿 ミスターサマータイム


1978 新宿 ミスターサマータイム

あの年の夏は暑かった。1978年、70年代も終わろうとしていた夏。

焼けたアスファルトにワラビーのゴムソールがグチュグチュと嫌な音を立てていた。

若者が地上に出て向かったのは高野フルーツパーラーだった。建物の上階にワールドレストランという世界中の名物料理を集めた施設があった。若者はそこで生まれて初めてカネロニを食べた。その料理が旨いのか不味いのか判断する舌さえ持ち得ない初めての経験。新宿はまだ混沌としていた。

あの頃新宿にはコンパという安居酒屋があった。代官山に実家を持つ裕福な先輩が後輩を良く連れて行ってくれた。先輩がボトルキープしてある酒を飲んだ。酒は角瓶だったと思う。なにせオールドは高級品だったから。

その店はコンパエアラインと言った。店内はカウンターがいくつかあって、それぞれが別の航空会社の制服を模した洋服を着た若い女性がカウンターの中に入っていて、お酒を作ってくれた。私達はオニオンスライスを頼んでただ酒を飲んだ。私はSASと書かれたカウンターが好きだった。スカンジナビア航空の模倣。

当時はサラサラの長い髪が流行りだった。それに反してそのカウンターの女の子は短い内向きのカールしたショートヘアだった。何となく一時代前のような髪型に惹かれた。あの店は幻だったのだろうか。しばらくするとその女の子は店を辞めていた。体を壊して実家に戻ったと聞いたが、妊娠して休学したという噂が流れた。

東京はある意味物凄いスピードで変化していた。新宿西口の暴動も反戦運動も何事も無かったように消し去られ新しいものが作られていった。

キャンディーズは普通の女の子に戻りたいと解散した。普通と普通でない境界線、正気と狂気の境界線が曖昧だったあの頃、ミスターサマータイムがどこからともなく流れて来たあの夏。

若者の部屋には緑の植物が描かれた薄い化学繊維のカーテンが吊るされていた。目の前の道路を大型車が通るたびに地震のように揺れた。共同の台所で誰かが包丁を使って野菜を切っている音が廊下に響いた。

若者はこの穴倉から笹塚まで歩き新宿で乗り換えて四谷に向かう生活をまるで時計仕掛けの人形のように繰り返した。真田堀でテニスに興じる女子学生は自分とは違う生物だと思って睥睨していた。

若者は実家から通う学生が羨ましかった。思う存分食べる事の出来ないその辛さは若者には堪えたからだ。だが、実家には戻ろうとしなかった。それでも夏と冬は戻らなければならない。戻ると気持ちが弱くなった。出来れば東京には戻りたくなかった。電車が浅草に近づくにつれ気持ちを入れ替えた。鐘ヶ淵、曳舟と駅を通過するたびに若者は鎧を重ねた。

あの暑い夏は二度と来なかった。焼けつくような暑さと腐った果物の様な匂いが充満していた東京の夏。

秋になると若者の部屋の壁に貼ってあった小林麻美のポスターが剥がれおちた。テープの跡が日焼けしている。

若者の留守の間にテレビドラマの撮影で使われた部屋は整然としていた。ただ、お礼の手紙と中身が無くなってしまった空の菓子箱が置いてあった。

若者はその秋引っ越しをした。


1974 乾いた夏 正露丸とトマト


1974 乾いた夏 正露丸とトマト

少年はふらふらだった。夏休みに入ってバスケットの練習はさらに過酷になっていった。

体育館を使える日はまだ良いのだが、バレー部と入れ替わりなので外で練習する日がある。土で固められたコートはところどころ砂が混ざってとても滑りやすい。

少年のオニツカのキャンバスのバッシュは砂と埃で灰色になっていた。そのバッシュが滑る。体育館の様な訳にはいかない。

真夏の太陽の日差しが容赦なく照りつける。

少年は中学2年生だったが、ゲームでは先輩に混ざりスタメンに入っている。先輩の檄がとぶ。ルーズボールは地獄だ。それが3セット。腰に力が入らない。相手ともつれて倒れ込み膝や肘には無数の切り傷があった。

シュートにはスナップが必要だ。スナップを効かさないとゴールに嫌われてしまう。逆にスナップが効いていればザッという良い音がしてシュートが決まる。少年は手首を痛めていた。旨くシュートが決まらない。でも怪我のせいにはしたくない。遠くから打てないなら、ドリブルで突破してランニングシュートを決めようと焦っていた。焦れば焦るほどディフェンスがこちらの動きを読んで、目の前に立ちはだかる。

入道雲が真っ青な空にもくもくと湧きあがっていたあの夏。蝉の声が恨めしくなるほどの乾いた夏。親戚の実家で作っているトマトを持ってきた部員がいた。冷たい水で冷やしていたあのトマトの赤。

失敗するとランニングが待っている。校庭を1周2周と走らなければならない。
さらに時折上級生の雷が落ちた。ビンタを受けた事もある。1年生の中には気分が悪くなるものもいた。こんなとき正露丸を飲んだ。何が効くのか分からぬまま少年も飲んだ。今でも正露丸を飲むとあの夏を思い出す。

今だったらいじめでやり玉に挙げられただろうが、当時はそれが当たり前だった。
考えてみるとその後の人生であんなに乾いた夏は訪れなかった。夏に強いのはそのお陰だろうか・・