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2013年10月23日水曜日

MY FAVORITE SPACE

居心地のいい場所

バブルの頃には毎週のように夜の銀座に繰り出し日に何十万、何百万というお金を使っている人がいた。私には残念ながらそのような経験もないし、もし出来たとしてもやらなかっただろうがそこは価値観の違い、それが楽しいとして遊んでいたのなら他人が口を挟むことではないと思っている。何故なら、当時そうしてお酒を飲み歩いたのはその人がその場所こそ居心地のいい場所だったからだ。

若い時に出会った人がいる。当時、新進気鋭のデザイナーとして世界的に有名になった人のマネジャーをやっていた。デザイナーはほどなくしてエイズで死去し、そのブランドもなくなった。その人は白髪交じりの長髪に赤みを帯びたヘリンボーンツイードのジャケットを颯爽と着ていた。今でもこの柄のツイードの生地を探すが見つからない。そのくらい私にはインパクトがあった。ジェットセッターで世界中を旅するその人は一枚のブランケットを携行していた。そう、どんな場所でも自分にとってそこが居心地の良い場所にするために。その人は東京を離れた。今は益子の山の中で自分のしたい仕事をしている。きっと居心地のよい場所を求めて行き着いたのだろう。

私もずっと居心地の良い場所を探し続けている。しかしそれは決してバブルの頃の銀座の飲み屋でもないし、一食数万円もする高級レストランでもない。海岸の突端でハンモックに揺られながら擦り切れたヘミングウェイを読み過ごした時間、911のハンドルから伝わる路面の情報を楽しみながら、ほとんどブレーキを踏むことなくスムーズに運転できた通勤の30分間、空港のラウンジで青から茜色に変化する窓の外を眺めながら出発までの時間、そのどれも居心地を求めている。そう若い頃には居心地を作るのは場所だと思っていた。ところがこの歳になって気づくことは、居心地は経験なのだと。どんな場所でもどんな時でも居心地のよくなる方法がある。

先ほども事務所の近くの小さな額縁屋のおばさんに三連のペギーホッパーの額装について相談した。同じ町内なので実物を持ってきますと伝えるとおばさんが笑顔になった。居心地がよくなった。








2013年10月21日月曜日

CARRERAとCALERA


carreraとはそうポルシェ911のことである。私が50歳を過ぎたらなんとかして乗りたいと思っていた車であり、少し遅れたが念願かなって今手元にある。

私のクルマ遍歴は30年以上になる。自分の中でルールを作っていた。50歳まではスポ―ツカーとベンツは所有しない。理由は簡単、若い自分には似合わないから。

ある人が私に言った「どうしても新車が乗りたいなら国産にして10年以上乗りなさい。もし会社に利益が出て、できる限りお金を貯めたいなら中古の輸入車に乗りなさい」

私は理由もわからずただその言に従った。そして20年続けてきて今になってその理由がはっきりと分かる。人には好みがある。跳ね馬のスポーツカーも、悪魔のような名前のランボルギーニも乗ってみた。確かに一度ハンドルを握れば官能的ですらある。でも私には金庫のように堅牢で面白くはないかもしれないが勤勉で真面目な固くしまったボディで必要以上に咆哮をあげない911以外に所有したいと思う車は今のところ見当たらない。

初めて911のハンドルを握ったのは20年近く前、あんなにも運転の難しい車があったろうかとその時思った。上り坂で前輪が浮いてハンドリングが効かない。ジムカーナや悪路で腕を鳴らしたつもりがガードレールにぶつかりクラッシュ寸前の目にあった。そして50歳を前にした現代の911に試乗した。もはやそれは当時のようなじゃじゃ馬ではなく、ジェントルにして大人の風格を携えていた。そしてやっと手に入れることが出来た。本来なら素のカレラで十分だったのに縁あってsがやってきた。先程、ジェントルといったがそういう運転も出来るということで、本来のスボーツ性能は色褪せていない。

跳ね馬もそうだが、高回転型のv型エンジンというのは低速で転がしているとブスブスと嫌な音がする。特にv10など低速走行は苦手でサーキット以外は適さないと思う。その点フラット6はブルンという震えが一発で止まり、低速からトルクが盛り上がる。
こんな話もevになったら「何?」の一言で消え去ってしまうのだろうが今のところもう少しご容赦願うことにする。このcarreraはスペイン語でレースの意味だそうである。メキシコの公道を使ったレースにこの名前が冠されてもいる。


もうひとつ建築関係のお仕事に携わっておられるなら、イタリア産の白い大理石をビアンコ・カララと言うのをご存知だと思う。そうこちらの方はワインのcarelaのそれと同じで「石灰質」のと言う意味がある。偉大なるシャルドネの白ワインを作るにはこの土壌がとても大切である。

carela がカリフォルニアのロマネ・コンティと言われるには理由がある。当主がdrcで醸造の手法を学んだばかりでなく、その若木を持ち帰り植えたことに由来するというから、相当意識したのだろう。私も先輩や友人に勧められてこのcarelaをよく飲んでいた。ところが数年前から品質が急に悪くなった。いや確かに悪くなった。値段も急落した。理由は分からないが、インポーターのせいなのか、生産の問題なのか分からないが少なくとも魅力が失せていったのだった。ところがどうだろう数日前試しにと2011のシャルドネを飲んでみると、いやいやどうして良くなっているではないですか。

少し温まってくるとまずトースト、青りんご、ナッツの香りと複雑にアロマが重なってきて、牡蠣の殻のようなミネラル分を感じ、酸味は抑えられ喉奥に仕舞われた頃にはもう一度ブーケのような香りが鼻を抜ける。これは年代物のムルソーのように石灰質の土壌から懸命に水分をとるぶどう特有のなせる技です。この値段でこれは買わない手はないと思う。

ということで二つのカレラ、今のところ私は大変満足している訳です。




2013年10月3日木曜日

やがて悲しき外国語


やがて哀しき外国語

私と同郷で一つ年上の三遊亭竜楽さんという落語家がいるのをご存知ですか。師匠は円楽一門なのですが、なんと6か国語で落語が出来るのです。そんな師匠がラジオの番組で面白い話をしていました。ポルトガルでの講演の時のこと、なんでもポルトガル語の発音というのが大変難しく特にトイレを意味する言葉が喉の奥と鼻をつまんで時間差で出すような発音らしく(グゥガァクゥガァみたいな)ポルトガル大使館の偉い人に発音を教わって猛特訓したのだそうです。現地で試してみようとホテルの若いフロントマンに告げるも首を傾げるばかり、もう一回勇気を出して行ってみると今度は両手を挙げて全くワカンナーイのポーズだったらしいのです。そこへ日本からのポルトガル語が全くしゃべれないスタッフが旅行ガイドを見ながら一言二言話すとホテルマンはトイレの方向を指さして教えたそうなのです。これには師匠も驚いて訳を調べてみると、師匠が使っていたトイレという言葉は現地ではほとんど使われない古い言葉のようなのです。師匠も言っていましたが、目の青い外国人から日本の若い人が「セッチンドコニアリマスカ?」と聞かれたら答えられないだろうと、その時の様子を語っていましたが確かにこうした勘違いは外国語に見られることですね。

この題名はもちろん村上春樹さんのエッセイからとったものですが、彼もとても面白いことを言っています。うずまき猫の見つけ方というエッセイの中で、Bitch(ビッチ)という言葉を説明していました。この言葉は映画などで相手を罵るシーンで使われますが、この言葉を無理やり「このアマ」「売女」「あばずれ」とか訳そうもんなら、まるで一昔前の日活映画みたいだと言っています。確かに後ろから来たドライバーに「この薄らトンカチ」なんいいわれたら吹き出しちゃいますね。彼はこういった「サノノバビッチ」のような言葉はそのまま訳さずに使ったらどうだと言っていますが、ようするに翻訳するにも相手の言語にそうした言葉がないと言っている訳です。納得ですね。

そしてもうひとつ言葉というは誰が使っても同じという訳ではないのですね。たとえ危険な言葉でも同じ言語圏のひとなら、まあそのニュアンスも使い方も熟知しているので火花は散るけど爆発はしない、ところが言語圏の違う人がこういった言葉を使うとそれこそ爆発炎上してしまうことがあるんですね。私が30代のころ団体で南の島に行ったことがあります。ある男性が何のクレームだったのかしりませんが、ホテルのフロントの人に向ってFack you!と言ってしまったのです。私をはじめその場にいたほとんどの人が凍りつきましたが当の本人は全く分からない。そのうち、セキュリティや他の大勢がぞろぞろ現れて警察まで呼ぶ事態になってしまいました。そのうち団体の責任者がその男に謝らせ事なきを得ましたが、まさに言葉が爆発炎上してしまったわけです。

我々はどうしようもなく外国語の苦手な日本人であるのです。いいじゃないですか、流暢にしゃべれなくても、ひとつひとつ辞書を引きながらゆっくりと意志を相手に伝えることが出来ればそれでいいと思いましょう。




 



 

2013年9月27日金曜日

安倍さんが変わった理由


安倍さんが好きだとか、自民党が嫌いだとかそういうことではありません。皆さんは安倍さんが変わったと思いませんか。私は当初どんな事情にせよ一国の宰相という重職を投げ辞任した人がもう一度務まるとは思っていませんでした。ところがどうでしょう。変わったとみるべきかマスコミが敢えて以前はそうしたことを公表しなかったのか定かではありませんが確実に仕事をしています。

前々日の深夜、カナダの首相と取り決めたシェールガスの日本への輸出交渉は大きな進展です。マスコミでは案の定それほど取り立てていませんでしたが、今後の日本のエネルギー政策を変える可能性のある一大事だったと思います。

そもそも20世紀のエネルギーは中東の石油に頼っていました。ところがその中東は民族的、宗教的対立でとても不安定な地域です。ひとたび戦争が起これば世界的なエネルギー問題が生じてしまいます。そこで安定的エネルギーを求めて原発に舵を取ったのです。もちろん皆様もご存じのとおり日本の原発政策導入には政治的からくりもあり、また原発フィクサーと称される人物もいて民意の反映の結果とは言い切れません。しかし、現実にこの原発を廃棄するには代替えのエネルギー政策が必要なのです。長期的には風力や太陽光、潮力といったエネルギーに転換するとしても当面は別のエネルギーに頼らざる得ないわけです。しかしながら日本にこのシェールガスは実用化できるレベルでは今のところ存在しません。
シェールガスの先進国アメリカから輸入する場合、プラントの多くは東海岸にあるためパナマ運河を通らねばならず20日ほど掛かってしまいます。ところがカナダは西海岸から直接運ぶことができるためにその半分の日数で済みます。当然コストは下がるわけです。つまり価格硬直が起こらずより安いカナダからの調達コストが他の国々から輸入する場合の基準に押し下げられた訳です。これは大きな進展だと思います。
以前、自民党のある県の後援会会長をしている先輩から安倍さんが首相を辞めた後、先輩のところに来たことがあって、その時の質問に対する答えの迷いのなさに驚いたと言っていました。先輩も首相の時の答弁のしどろもどろとの対比に驚いていたのかもしれません。
では、何故変わったのでしょうか。
私は安倍さんのブレーンがより重層的(レイアー)になったことが要因ではないかと思います。最近の政治家は似たような人と組みたがる傾向にあります。某政経塾出身の人たちの似ていること似ていること、金太郎飴のようです。安倍さんも首相の時は2世議員の典型のようでした、ところが今回は違います。これには好き嫌いは別として経済、外交、防衛のそれぞれのブレーンを配置してさらにそれら政策が上手く機能するような下準備(日銀総裁人事など)をしてから政策を実施したことが大きいと思います。またレイアーな人事は多層的な知識を生みます。それによって教育、福祉といったその他の範囲でも新たな取り組みが行われます。

7年後の東京オリンピックの招致に成功したことはさらに大きいと思います。少なからずそれまでは錦の御旗にこのことを謳えば様々な政策がインフラの整備と称して実行できるからです。ただ問題はそのあとです。私の周りの多くの経済人がそのことを心配していました。日本の正念場の7年となることは間違いありません。7年間のモラトリアムの間にこの日本という国が変わることが出来なければ確実に亡国の道を歩むことになります。
震災の復興も大切です。しかし、同じ町を戻すことが本当に復興なのでしょうか。三浦氏が書いているように復興における政策にはこのことが大切で被災者である多くの人たちも理解しなければならないのです。そして国家としてどのようなビジョンを国内外に指し示すことが出来るのかが本当に大切になってきます。安倍さん今度は投げ出さないでくださいね。本当の正念場なのですから。





2013年9月26日木曜日

1978年のサムタイム

1978年のサムタイム

1978年は私にとってのターニングポイントだった。笹塚、阿佐が谷、浜田山と安アパートを転々としながら大学に通っていた。
この頃になるとアルバイトも先輩や友人の斡旋もあり、割と効率の良いアルバイトをしていたので多少の自由になるお金はあった。もっとも一回少し贅沢な外食をしてしまえばなくなってしまう雀の涙ほどのお金だったのであるが、それでも興味のあることに費やすことが出来た。
あの頃、中央線の沿線は賑やかだった。賑やかというのは語弊があるかもしれないが、私が通いたくなるような店が多かった気がする。自転車で5分程のところにもジャズバーがあった。店主はウィスキー1杯で3時間も4時間も居座る私達を大目に見てくれていた。
私は時折、吉祥寺にも出掛けた。友人と行く時も一人の時もあった。吉祥寺という街は今でこそ住みたい町ナンバーワンになっているが、あの当時は何となく暗く、寂れてコンサバティブな感じがした。きっと街の発展がお寺によって分断され、箱庭のような小さなエリアにお店が集中していたからかもしれない。後で分かった事だがコンサバのはずが赤旗の多く読まれる街でもあった。
ちょうど開店して何年目だったと思うが、サムタイムとチャチャハウスという店によく出掛けた。サムタイムは今でも続いているが、チャチャハウスは無くなってしまった。
サムタイムではライブの演奏をやっていた。ジャズのスタンダード曲を覚えたのはこの店だった。1950年代の古いアメリカンバラードが心地よかった。そしてコルトレーンもここで教わった。酒とバラの日々を聞きながらフォアローゼズのソーダ割りを頼む。この店ではバーボンソーダ以外は頼まなかった。
一方、チャチャハウスでは古いジュークボックスから西海岸風の軽いロックが流れていた。
ここでは色々な飲み物を頼んだ。イーグルスを聞きながらテキーラサンライズも飲んだ。底に赤くたまったシロップが水平線から昇る朝日だと説明した事もあった。そんな遠い記憶。
私はそこにいながら1970年代をロクに知らずに過ごしていた。それでもその時代に今でも追い掛けられている。その影を振り払おうといくら思っても、ある時急に私の前に顔を出し、そら見たことかとアカンベーをしてせせら笑う。




2013年9月25日水曜日

ドラマツルギーな挫折とターニングポイント

ドラマツルギーな挫折とターニングポイント

 人間は歳には関係なくドラマツルギーであるが、特に若い時にはこの挫折が大きい。挫折の原因となるのは自らの演目を観客が評価しないことにある。当たり前と言えば当たり前なのだが、社会の一般性をまだ経験していない、ある意味では純粋無垢な心がそうさせるのだろう。その挫折を味わうからこそ、その先の成長や発展が見込める。若者はその時、その事を知らない。

若者はジレンマを起こし、自傷までして傍若無人に振舞う時期がある。人によってその時期も異なるであろうが、私の場合は高校2年の時だった。
ある時に目の前が真っ暗になり、先が全く見えなくなった。信頼していた友人の裏切り、狡猾な大人達、八方塞がりの状況は若者の心を大きく傷つけた。恐らく人生最大のこの危機こそ、人生における最大のターニングポイントだったと思う。
考えてみるとその時の社会が人の一生の考え方の基底になっているように思う。資本主義への反骨、平等主義、反戦それらすべてがアマルガムとなってルサンチマンの如く若者を凌駕する。私のその時は1974年だった。あの当時の世相が今の考え方の基底にある。夢を抱き突き進んだ先輩たちの学生運動は全て何もなかったように世の中は平然としていた。そんなことを口にする事さえ憚られた。世の中にも、大人にも信用する術を持たない。

 それから4年私の1978年はその続きだった。平穏な大学は戦う事を止め、豊かさを求める。企業戦士として資本主義に仕えるその前の一瞬としての執行猶予。苦しみや悲しみを放棄し、楽しさだけを追求したあの頃。何もかもが反対だった。

しかしいくら楽しさや豊かさを追求しても若者の心の奥にある乾きは癒えない。癒えないどころか一層激しくなる。ぎらぎらしたおどろしいまでの情念は深い淵の奥に隠され平和と成長と言う謳い文句によって封印された。





2013年9月24日火曜日

極上のステーキを


この頃、さしの多い牛肉のステーキより赤身の方が好みです。この傾向はお肉に限ったことではなく、お寿司でも中トロや大トロより、赤身の方が好きですし、マグロよりも白身の魚に目がありません。

ところがこの極上の赤身の肉というのが中々手に入りづらいものなのです。色々な店で購入しましたが、筋が多かったり、肉が硬かったりと思うような肉を手に入れることが出来ませんでした。

一度、接待で銀座の「かわむら」に連れて行ってもらったことがあります。あの時の衝撃が今でも忘れられません。赤身でありながら柔らかく、そしてレアなのに血は落ちない。噛めば肉本来の旨みが凝縮し、それでいて喉越しも良くすっと胃に収まって行く。そんな素晴らしいステーキでした
2年ほど前に岐阜の潜流を再訪しました。20年ぶりの邂逅です。出されたステーキも飛騨牛のもので美味しかったのですが、私には少々脂が多すぎたと感じました。

海外のステーキ店も良く行きます。アメリカのステーキはほとんどがアンガスビーフなので赤身が多く私には合っているからです。ところが店によって焼き方が違うため食感や味も変わってくるのです。ワイキキのハイズではキァベという香木でいぶしたステーキが有名です。また、BLTは同じアンガスビーフでもカナダで育てられたビーフを使うので食感も異なり、いくぶんこちらの方が柔らかく上品かもしれません。

そんなこんなで美味しい赤身を探していたら、日本にも熟成肉のブームがやってきました。そうなのです赤身こそ熟成肉が最適なのです。そんな事を喜んでいたら、そのブームの火付け役ともいえる「中勢以」が田園調布にオープンしたのです。小石川にも同店はあってそちらではイートインもあり、店で購入したお肉を調理して食べさせてもくれるようです。

そしてやっと昨日、田園調布まで行ってきました。購入したのは外モモとシンシンと言う部位です。
シンシンというのはシンタマと呼ばれるその真ん中の部分です。この二つを食べ比べる事にしました。
ここで断っておきますが、よいステーキを焼くコツというのは良い肉を手に入れること、厚さは3センチ、ある程度の塊(300グラム以上)の肉であること。そして時間を掛けて丁寧に焼く事です。
ステーキといえどもこのあたりはフランス料理の低温調理と通ずるものがあります。
3つ星のカンテサンスの岸田シェフが作るメカジキのポアレも手間と時間を掛けて休ませながら調理していくため、肉質は柔らかく、ほのかな甘みも備えています。
肉を切り分けてもらう際、職人さんは定規で3センチになるように包丁を入れました。さらに肉を丁寧に不要な部位を取り除き正味で提供してくれるのです。そう考えると以外と安いかも知れません。
外モモは醤油との相性が良いと言う事で、みそたまりと醤油を併せた調味料を作ります。シンシンの方は軽い塩コショウです。
まず、熱したフライパンに牛脂を入れて溶かします。不要な脂をフライパンから取り除き、肉の表面にさっと焼き色をつけます。このときに肉汁が出るようでは駄目です。肉をすぐに取り出しパットの上で休ませます。このときボウルのようなもので覆いかぶせるとゆっくりと温度が下がっていくために旨みを逃しません。

200度に余熱したオープンの下段で5分焼きます。そしてまた肉を取り出してボウルを被せて休ませます。これを4回繰り返します。そして休ませた肉の表面をフライパンでもう一度温めます。
お肉を焼くだけなのですが時間にして1時間近く掛ります。でも最上のステーキになる事は間違いありません。

自画自賛ですが、皿のどこにも血が残っていません。表面は香ばしく、肉のうまみがギュぅっと詰まった素晴らしいステーキの完成です。皆さんも如何ですか?こんなに美味しく出来るなら銀座まで出掛けなくても十分です。外モモもシンシンもどちらも美味しいのですが、柔らかさ、雑身の無さ、そして香りも含めてシンシンのファンになりました。息子が無言になるときは美味しい証拠です。
そうそう、ただしこのお店カードが使えませんのでそれだけはご注意ください。いや、久々の感動した食材との出会いでした。