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2014年2月14日金曜日

中田さん

青年が10号通りの中華屋を出る頃には雨はあがっていた。商店街のモザイク模様の歩道は街路灯の冷たい光と月明かりを反射している。
商店街を抜けると青年の住んでいるアパートはすぐそこだ。築50年以上の木造二階建てのアパートは贔屓目に見ても綺麗とは言いがたい。水道道路に面して建っているため大きな車が通るたびに激しく揺れた。
開け放しの玄関から中に入ると細長い廊下が続く。天井にはいくつかの裸電球がついているが半分くらいは切れていて光を放っていない。どの光も弱々しく、そのまわりを夥しい夏の虫が飛び回っている。
階段を登ったすぐ左側が青年の部屋だった。階段を一歩一歩ゆっくりと上がる。それでもギシギシと音がしてしまう。階段の踏面はコンクリートで塗り固められていてそれがすり減って手前に傾斜している。後ろから誰かに引っ張られているそんな重さを感じる階段だ。
ここに住んでいるのはほとんど老人だった。いや、青年は誰一人正確には入居者の歳など分からなかったが勝手に独居老人と決めつけていた。
何故なら廊下で出会う誰もの目が精気を失っていたからだ。人生に疲れたのか、病み上がりなのか分からないが、とにかく老人たちを凝視してはいけない気がした。
青年の部屋は四畳半で赤茶色をした隣の建物の壁が窓を塞いでいた。トイレも台所もないからっぽな部屋だった。
緑色のナイロンの安いプリントカーテンの隙間からガラスに止まっていた蛾が見える。蛾の羽には目玉のような大きな円が描かれていた。どうして蛾はこんなに気持ち悪いのだろう。毛が生えた触覚、寸胴の身体、地味な色彩、どれをとっても同じような昆虫の蝶とは違う、全ての不幸と引き換えに手に入れたようなその体を蛾は何故受け入れてきたのだろう。
青年はカーテンで蛾が見えないように塞いだ。
ドアがノックする。居留守を決め込もうとしたが、先程の足音とドアが開く音でわかったのだろう。このアパートの管理人だ。青年はこの管理人が苦手だった。
管理人の名前は中田さんといった。恐らくこのアパートでは青年の次に若い女性だった。若いと言っても五十歳にはなっている。この中田さんも独身だった。
中田さんは悪い人ではない。どちらかと言えばいい人だ。青年には優しかった。しかし、その優しさとは別の顔を持っていた。彼女はよく人を観察する。人知れず観察するのではなく、足の先から頭まで舐めるように観察し、自分の仕入れていた知識と合致させ少しでもそぐわないと感じると質問をしてくる。その質問は容赦なく、拷問のように感じる。
青年は一度本当に大学に通っているのか質問をされたことがある。良家の子供が多く通う大学と青年の姿が一致しなかったようだ。青年は学生証を見せた。すると中田さんは「へえーえ」と言って。金歯を見せて笑った。青年は何故この人に学生証を見せなければならないのか、行き場のない怒りを覚えた。それ以来、中田さんのことが苦手になった。
蛾が窓から居なくなった。蛾は街路灯の周りにうつり、他の虫達と一緒にうろうろ飛んでいた。
青年はドアを開け、預けられた小包を中田さんから受け取った。小包は開けた跡があった。小包は実家の母からの貰い物のお菓子だった。青年はそのまま中田さんに菓子箱を渡した。中田さんは「エヘヘ、悪いねえ」と言って部屋をもう一度ぐるっと見回しドアを閉めて帰っていった。青年がそのアパートを出たのは二か月後のことだった。

※注意、本文は架空の話です。登場するは人物も架空のものです。




2014年2月13日木曜日

陰影のない時代

フリードマンのフラット化する社会を読んだのは随分昔になるが、現代(イマ)は彼が宣言していたように国境さえ意味を持たなくなる平滑化されつつある世界である。これによって情報の非対称性はなくなり、人々は平等に共通の情報を保有する。一方で平滑化は陰影を持たない。知っているか、知らないかそのどちらかである。
私はSNSを暫く前から試みている。情報は瞬時に誰かに届けられ閲覧した人はその情報を廃棄する。見事なまでに己に都合のいい情報が集まる。SNSをやると言うこと(覚悟して)つまりその事を甘受していなければならない。自分の情報を開示しない閉じたコミュニティに安住したいならばSNSはやらない方がいい。自分が隠しておきたい情報がなくても微妙な人間の陰影さえも失われるからだ。
では何故続けるのか、それは利便性に他ならない。他社に情報をネットワーク経由で伝達することで直接の強さを軽減できる。さらに、プライベートでは珠にしか会わない友人にも近況を伝えられる。確かに便利だ。
ある米国の学者がFACEBOOKはこれから衰退すると言っていた。今の状況は熱病のようなもので、多くの人は我に返ると。閉鎖的な日本人ならともかくあちらの学者がそう言っている。
何だか分かるような気がする。確かに便利ではあるが全く陰影のない世界は案外面白くない。例え利便性を手放したとしてもそちらを選ぶかもしれない。いずれにしても世界は変わったのだと。




2014年2月12日水曜日

小說考

男性女性を問わず様々な小説が世に送り出され消費されてゆく。このところ女性の作家に優れた作品が多いように感じる。
小說にはマクロ的に読ませる小說とミクロ的に細部に拘り、深く潜行して表現される小說がある。もちろんこの二つの混在型もあるが、多くの作品は何となくぼやけてしまっている感じがする。
前者の小說は全体が劇のようでもあり始まりと終りがある。そして作品中に抑揚が付けてあり、読み終えると一定の満足感を覚える。歴史小説のたぐいの多くはこちらである。
一方、後者は何気ない日常の表現の中に様々な要素を織り交ぜる。文中に出てくる人間の感情や感性、日常的時間軸の中における非日常性などを散りばめる。
こうした表現はやはり女性が得意なのかもしれない。私の好きな作家は見事にそれを表現する。時折、そんな作家のブログを読む。すると作家の空気感のようなものを感じられる。益々、その作家の作品が読みたくなる。何故なら彼らは文章の達人であって、たとえブログの中でも陰影を忘れないのだ。



もし参考になればと私のよく読む山崎ナオコーラ女史のブログとHPである。






2014年2月7日金曜日

絵画教室

母は素っ頓狂なところがある。貧乏で食べるのもやっとなのに小学校に上るや否や絵画教室に通わせた。家からだいぶ離れた場所にあったその教室は6.7人の生徒に絵画を教えていた。先生は年齢にして30才前後、どこかの学校で教えていて、副業をしていると言うわけではなく、東京の美術大学を出て理由は分からないが実家に戻ってきてこうして子供たちに教えるようになったそうである。

私には赤ん坊の時に死んでしまった叔父がいる。中学生の頃より肺結核を患い若くして他界した。私が幼かったこともあり、離れた山里の療養所で生活していた。覚えているはずもないのだが、優しい口調で絵本を読んでくれたその膝の感覚。先生はその叔父に似ていた。

先生は生徒のやりたいように描かせた。時折、相談に来る生徒には一言二言付け加えるだけで決して生徒の絵を否定しなかった。

私が一番年端のいかぬ生徒であったが心から楽しかった。
絵画教室の行き帰りも楽しい。すぐ近くにパン屋さんがあって中にレーズンが入っていてくるくる渦巻きになった砂糖でコーティングされたパンがあった。初めてそれをデニッシュというのだと知った。そのパンを母に一つ買ってもらうのが楽しみだった。
何ヶ月か通ううちに家計が苦しくなった。私はそんな内情を察してか知らずか、自分から行きたくないと母に告げた。本当に行きたくない訳ではなかった。その月で絵画教室を辞めた。

その後も絵を書くことは好きだった。ところが中学校に入って。美術の先生は型にはめた絵を描かせようと生徒たちに強いた。線がどうの、遠近がどうのと煩かった。一度、あまりに頭にきたのである有名な写真家の一枚を模して提出した。するとその時だけは二重丸の評価にあがった。馬鹿らしくなって絵を描くことも嫌になった。

今でもレーズン入りのデニッシュを見ると、あの時の絵画教室のことを思い出す。小さな家だったが庭には色とりどりの花と実をつける木が植えられていて、近くの山から野鳥が飛んできた。

そんな声を聞きながら無心で絵を描いた。あの光景はずっと今も心の奥に座ったままだ。




2014年2月6日木曜日

ハンバーガーとの和解

私と同じ年齢の人でも東京や大阪など都会に住んでいた人と北関東の外郭の街に住んでいた私のような人間とでは年月にして6.7年、時間にして6万時間も遅く現代(イマ)がやってくる。流行語にもなった「今でしょう」だってシンコペーションのように一呼吸置いてやってくる。どうりで福島生まれの細君の祖母と話があうわけである。だが、こうして現代とズレた人間を一般には田舎っぺというそうだ。この歳になれば田舎っぺ大いに結構、それだけ昔の時間を長く体験させてもらったのだから有難いというべきだ。

私の家が水洗トイレになったのは小学校の高学年であったし、薪の五右衛門風呂がガス式に変わったのは中学生になる頃だった。よく雀が煙突に間違って巣を作ってひなが落っこちてきた。洗濯機が自動になったのはもっと後のことで、ハンドルを回してクシャクシャの洗濯物を干すのも一苦労だった。
ファションにして都会で流行っている垢抜けた洒落感を出そうと思っても、田舎の質実剛健、長持ちが一番が顔を出す。何かしら都会のそれとは違う。
食べ物だってそうだ。ハンバーガーと初めて邂逅したのはミミズクという高校の正門近くにあった自販機だった。サラミソーセージのような薄っぺらな肉が中途半端暖められたフニャフニャベトベトのパンの中に見えないように入っていた。ただ、有無を言わさず辛子だけが異様に沢山入っていた。

こんな風にハンバーガーとの出会いが悲劇的だったから、その後もハンバーガーとの相克は続いた。何故、美味しいのか分からない。だから、上京してからもハンバーガーショップには目もくれず、ひたすらガツン系の食堂に足が運んだ。

ハンバーガーと和解したのは結婚して2.3年後だった。娘を始めて海外に連れて行ったグァムでのことだった。タモンビーチにバドワイザーのロゴをでかでかと車体に入れたトラックがハンバーガーを売りに来ていた。数枚のドル紙幣でハンバーガーを2つ買った。お腹が空いていた事もあるのだが、牛肉に変な手を入れずただ炭火で焼いたシンプルなそれは太平洋の夕陽のように私のお腹を満足させてくれた。

それ以来、ハンバーガーとの仲は不仲ではなくなった。時折、何千円もするハンバーガーなのに美味しくないものに遭遇することがある。そんなときはあのミミズクのハンバーガーの霊が財布の淵当たりにうろついているような気がする・・




2014年2月5日水曜日

書評 大竹昭子

「図鑑少年」というこの作者の本を読んだ。ごくありふれた日常の描写なのだがその精緻で綿密な企みに惑わされた。筆者の目は文学者の目ではなく観察者のそれであり、マクロ写真のようでもある。文章に描かれた玄関横のヤツデや中が歪んで見えないようなガラスブロックは私の頭のなかで勝手に近くの「有村医院」に仕立てられる。

彼女は写真もとる。撮るというような表現よりむしろ風景を剥ぎ取ると形容したい。乱暴なまでの描写は性別を超え、人種も超える。ニューヨークの犬さえも喋り出す。
そんな彼女が永井荷風へのオマージュとして散歩を薦めている。荷風は東京の崖の上を散歩した。崖は二つの世界をつくる。下の世界と上の世界。崖の端でしかこの二つの異界を感じることが出来ない。

本郷台地の端から見る東京はオレンジ色の靄の中にある魔界都市か。いや、崖の上こそ魔界なのかもしれない。
湯島の怪しげなネオンが霞んで見える立春。





2014年2月4日火曜日

二葉の年賀状

毎年戴く年賀状の中で特に楽しみにしている年賀状が二葉ある。一葉は顧問の弁護士先生からの年賀状である。先生とはお付き合いしてもう十年になるであろうか。
そしてもう一葉は私より一回り先輩から戴くのものである。

この二葉はとても似ている。年賀状に絵や図柄のかわりに極小の文字で、今自分が考えていることや体感していること、そうした事が丁寧に綴られている。読む方は虫眼鏡必須であるがこれがとても楽しい。

そんな文章の中に二十年前の昔の自分と今の自分が和解したというくだりが書かれていた。時代は違うのに私にはとても共感できた。誰もが学生時代の自分は愚かでちっぽけで青臭いと背を向け生きてきたのではないか。ところが艾年も過ぎるとその根っこはあの頃のものとちっとも変わっていないと気づく。友人は和解したそうだが、私は和解どころか今なお二つの自分がせめぎ合っている始末だ。誰かに調停をお願いしようかと考えたくもなる。

そうそう、偶然にもこの二人共淡青の大学の同じ学部の卒業生でもある。