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2014年3月7日金曜日

和食について


 和食がユネスコの世界文化遺産に登録されたと聞く。なんだかしっくりこないのは私だけだろうか。
そもそも和食と言われて多くの人は何を想像するのだろうか。京料理に代表される懐石料理のことなのか、それとももう少しカジュアルな割烹のようなものか、はたまた江戸前の握り寿司を思い浮かべるのか分からないが、蕎麦やうどん、ラーメンやカレーだって言い換えれば和食なのだからその裾野はかなり広いと思うのだ。
海外に行って和食を食べようとすると似ているが和食ではない店が多い。今や誰もが口にしたことはあるカリフォルニアロールだって和食といえば和食なのだ。
パリで1つ星を獲った和食のレストランに息子が出かけた。その店の主人はパリの魚事情があまりに酷く、自分が魚屋をするつもりで流通ルートから開拓すると意気込んでいたが結果は京都の和食店には遠く及ばぬものだったらしい。結局壁を乗り越えられなかったということか。またもや和食の星は当てにならぬ事を証明した。
そもそもその壁の考え方が間違っているのかもしれない。日本の和食をそのまま持ち込むことが本当に素晴らしいことなのだろうか。その土地にはその土地の気候がある。とれる食材も当然違う。だからカリフォルニアロールだって生まれたわけだ。日本と同じ和食を海外でつくろうとする行為こそ、間違っているのではないだろうか。
私たちの舌はそんな狭量ではない。その時時に応じて食べ分けることが出来るのだから。
因みに我が社のT君は日本に帰るとラーメンが一番食べたくなると言っていた。



2014年3月6日木曜日

通洞駅

少年は折角の夏休みを足尾で過ごさなければならない事が毎年苦痛だった。友達は家族で海水浴やキャンプに行き、学校が始まると口々に楽しかった夏の出来事を話し始める時に少年の夏はいつもきまって足尾だったからだ。

足尾といっても少年の住む場所は街ではなく、集落もない場所だった。駅は無人駅で1時間に一本通過する電車以外、人影も見当たらない。町役場に手当された住宅と窯は質素で雨風がしのげる程度のあばら屋だった。駅から住宅までおよそ6百メートル程だったが、人家は2軒だけだった。

そんな少年が母に買い物を頼まれたことがあった。今では考えられないが当時はいい意味で鷹揚だったのだろう。買い物と言っても近所に店はない。お醤油を買うために一駅電車に乗って買い物に出掛けなければならなかった。決められた時間に駅につき電車を待った。実家からこの無人駅までは何回も乗車したので駅名も諳んじていえる程だったが、この先には行ったことが無かった。
電車に揺られて見慣れぬ光景を進んだ先に駅はあった。通洞と書いて「ツウドウ」と読む。鉱山用語だと知ったのはずっと後になっての事だった。少年は駅に降り立ち、母から渡された地図の方向に向かって歩いた。扉を開けようとしたが閉まっていて開けられない。小さな拳でノックするが誰も応答しない。仕方なく、他に店がないのかその小さな街を歩きまわった。
大人になれば大したことのない距離だったが、少年には永遠に続く道の様に感じられた。ある場所を通りすぎようとすると酒に酔った男たちの怒声が聞こえた。生くさいホルモンの煙の向こうに一升瓶を片手に大声で騒いでいる男たちが見えた。
少年は咄嗟に目線を逸らしたが遅かった。下着姿に腹巻きを巻いた男が立ち上がって「オイ、坊主こっちこい」と叫んだ。少年は無我夢中で後ろを振り返らずに必死で走りだした。駅についた少年は汗でびっしょりになった額を手で拭いながら、あの男がやって来はしまいかとブルブル震えて物陰に身を寄せていた。電車がやって来たのはそれから15分後のことだった。
駅の裸電球にスズメガの気色の悪い目玉のような模様がはっきりと映しだされていた。
今でもこの駅の名前を聞くとあの時の男たちの声が蘇る。







2014年3月5日水曜日

イノベーションのディレンマⅡ

 日本はモノ作りの国だと言われ続けてきた。彼の国の首相も唱えるのだから間違ってはおるまい。日本の手作業や伝統的モノづくりにはもちろん敬意をはらうつもりだ。ところが工業製品にまでその賛美の裾野を広げた場合には一概にはそうとも言えない。

これまで日本を牽引してきた輸出産業である自動車、電気、機械という工業製品は戦後の日本と先進国との経済格差のギャップにより支えられてきた。相対的価値の低い国から相対的価値の高い国への輸出である。その製品が安くて長持ちするとなれば受け入れられるのは至極真っ当な事だと思う。一方、現在の日本はどうなのか。確かに中国は大国であり日本を抜いて世界第二の経済大国ではあるが先進国ではない。実際に中国における一部の国民と民衆の経済格差は増すばかりである。我々はこうした国にモノを売るのだ。1ドル360円のアメリカに売るのではないのだ。このことに留意する必要があろう。

 私の後輩に大手オーディオメーカーの重職を担っているものがいる。日本を代表するこの会社はレーザーディスクなどの新製品で一世を風靡したがこのところ好調だったカーナビも振るわなくなった。何故だろう。
ロサンゼルスでテスラモーターの実車をみた。ハリウッドの日本食レストランの前でタクシーを待っているとドアボーイが後ろのバレーパーキングから運転してきた。黒いその車体は固体というより液体のようで滑々していた。そしてコックピットにはアイパッドが貼り付けられていた。日本に帰りそのテスラを試乗する機会を得た。私がアイパッドと思っていた画面は同じようにダッシュボードの真ん中に配置され、アイパッド同様に操作することが可能だった。

 私は今乗っているメルセデスのカーナビをほとんど使わない。何故なら、あまりに使いにくいからだ。BMWも同様である。カーメーカーが純正として作らせるカーナビは全時代的である。何もなくて国産のカーナビを自由に取り付けられる方がまだ良いと思っていたが、ここに来て自動車メーカー各社がアップルの車載システムカープレイを搭載すると言い出してきた。テスラを見た時からこうなるだろうと未来予想図に織り込み済みであったが以外と早くなりそうだ。

 その企業にとって他の追随を許さない圧倒的技術力をコア・コンピタンスという。アップルやグーグルのそれはもはや既存の企業では追いつけない。テスラもその一つだ。今度2000億円規模でパナソニックとその他数社で自動車用高性能バッテリーを生産する。彼らの考えていることは世界中の自動車の心臓部をテスラ製にすることなのではないか。航続距離500キロ、1時間あたり充電で85キロ、8年または20万キロの保証の出来る電池を作る事はどの他の企業にも真似できないうちにシェアを拡大する。フラット化した世界ならではの戦略ではあるまいか。



2014年3月4日火曜日

隠された印


  東京や京都に限った事ではないが、歴史のある街には多くの特別な場所があった。
例えばその橋の先へは行ってはならないとか、この谷に下りてはならないなどいくつもの結界が存在する。

 そうした場所は呪術的であるばかりか、例えば公共衛生という観点から見ても頷ける。今のような疫学に関しての知識もない時代に官位もなく裕福でない庶民は必然的にその場所に集められた。言うならば隔離政策である。この考え方はつい最近まで現存していたのだから大昔の話として看過することは出来ない。
もっとも明治以降のそれは街の内部でなく、外周部に置くことでさらに距離的な閉鎖性を加えられた。

 永井荷風の日和下駄という東京散策記がある。荷風は小石川(現在の春日)で生まれた。その後、麹町、余丁町、麻布などに転居し、市川にて臨終するのだが、彼は専ら東京の東側を主材にしていた。その事は晩年の「墨東綺譚」を読んでも理解できるが、実際に小石川や余丁町(現 河田町、住吉町、若葉町界隈)を歩いてみてもその面影は高層ビルとコンクリートの塊によって鮫河町あたりも当時の足跡は上塗りされ痕跡を見つけることが出来ない。

 しかしながら、大地の地形というものは巨大なコンクリートの塊でも中々隠すことは出来ない。先日も本郷台地の東端である湯島から東側を眺めた。目の前にスカイツリーが聳え、眼下に上野公園の池に鴨が遊んでいる姿が見える。私の立つ位置は建物の三階くらいで上野駅周辺の10階建てのビルの高さと同じくらいなのだから台地の高低差も理解できる。

 はるか遠くには今では地名さえ無くなった玉ノ井が霞んでいる。ますます印は封印され無味乾燥な町名に統合されマトリックスの中に記号が消えていく。そして記号の街へと・・








2014年3月3日月曜日

我が家の味

我が家では毎年ひな祭りの時に妻がチラシ寿司を作る。娘が生まれてからなので28年になる。岐阜に住んでいた時にデザイナーズブランドのテナントより貰った赤いノートに作り方と写真が貼られている。紙は黄ばんであちこちに沁みがあるが作り続けてきた勲章のようでもある。

一度、手抜きして作ったことがある。家族全員から「アレ?今年の美味しくないね」と見透かされた。それ以来、レシピに忠実に作っている。
私は外ではチラシ寿司を食べない。我が家のちらし寿司が世界一美味しいと思っているからだ。例え、専門の職人が最高の素材を集めて作るちらし寿司があったとしても我が家のそれを選ぶ。それが我が家の味だからだ。

妻はこの料理の時ばかりは気合の入れ方が違う。いつもは目分量なのに計量カップや秤で重さや分量を測り、タイマーを使って正確に調理する。
もっともその日のために前日の体調管理まで行うのだから普段の姿からは想像出来ない。

今年もそんな季節がやってきた。娘も嫁にいき長年の我が家の風習も終わりを告げるのかと思いきや、嫁に行った娘達も里帰りした。パリに行っている息子からもちらし寿司の催促がきた。よって妻は徹夜で9つのお重をチラシ寿司で満載にすることになった次第である。


2014年3月1日土曜日

巴里逍遙

輸入文具の店を始めたのは巴里に行きたかったからである。毎年2回仕入れと称して(本当に仕入れていました・笑)巴里に数日間滞在した。本当はもっと長くアパルトマンでも借りて巴里に住むことが出来ればもっと楽しかったろうに、そんなことは到底出来るはずもなく、数日間の巴里行きで巴里の雰囲気を楽しんだ。
巴里の街をご存知のかたはお分かりだと思うが、巴里は東京と比べるとずっと小さい。
市街地と郊外を隔てるあたりに門がある。実際に門はないのだが、中世の頃には石造りの門があったはずだと思いを馳せる。
その辺りには市が立つ。バンブーもそのあたりにある。クリニャンクールが観光客相手の店が多いのと比べて、こちらは大分庶民的である。店を出している者の中にはフランスの田舎町から車に商売道具一式を積み込んでやってくるものもいる。掘り出し物の古い香水瓶を譲ってもらったこともあった。
巴里で一番好きな場所はモンマルトルの丘の上である。ピガール広場の先だ。あそこから見える巴里の屋根の景色が好きだ。
エッフェル塔には登ったことがないが、あそこでは高すぎる。それに比べると丘から見える景色では、建物には大小の煙突が不揃いに飛び出ていて手に取れそうな感じがする。
丘の下には葡萄畑がある。巴里で作られている唯一のワイン用葡萄だと聞く。葡萄の葉が色づき、西陽に照らされて黄金色に輝く初冬の景色。
早朝かと思いきや時計を見るとすでに8時を回っているのにあたりは暗い。その薄暗い石畳の坂道を大人に連れられて幼い子供たちが登ってくる朝の光景。クロワッサンとカフェオレの香り。
全ての日常が美しい街、巴里。巴里から日本に戻ると、大好きな絵の飾ってある美術館から帰ってきたような気持ちになる。そしてその絵をまた見たくなるのだ。






2014年2月28日金曜日

平和な宗教

我が家もそうではあるが大方の日本人は宗教にさほど染まってないのではあるまいか。いや、熱心な信者の方には申し訳ないが、ある国のように未だダーウィンの進化論を否定する宗教を国民が信奉する国ではないと言いたいのだ。
結婚式はキリスト教、葬儀は仏式、初詣に神社にお参りする。これが平均的日本人であると思う。彼の国に言わせれば節操もないということになってしまうがこれが平均的日本人なのだから仕方あるまい。
我が国の歴史を見れば分かる通り、八百万の神、つまり多神教国家だった。これは日本だけでなく古代ギリシャもそうであったように、土着の風習が年月によって生成されたものだ。その後、中国から仏教がもたらされた。仏教は当時の権力者によって利用され急速に拡大した。明治政府が廃仏毀釈を行うまでこの土着の宗教と仏教は併存した。
号令を発したまでは良かったもののすでに拡大してしまった仏教は国民の中に定着し、権力者の自由にはならず結局容認し、そのまま看過され今のような形を作ることになった。
いま世界は宗教的イデオロギーが経済や貧困と結びついて、あちこちで軋轢を生んでいる。キリスト教とイスラム教だけでなく、それぞれの宗教内にも反目と敵対が生じている。
一神教が悪いといっているのではないが、他を容認しない限り平穏は訪れない。そのままではハンチントンの文明の衝突そのものになってしまう。
私はそんな一神教同士の対立をこの日本が仲裁できるのではと密かに期待している。何故なら大方の日本人は多神教であり、他の選択を容認しているからだ。イスラム教もキリスト教も認められる懐の深さを持っている。
ところが最近嫌な事件が起こっている。図書館にあるアンネフランクの書籍を誰かが毀損したのだ。全くもって卑劣な行為である。自らの主張のため他人の事由を奪う情けない行為である。
もっともどこぞの国の首相は隣国が行わないでくれと嫌がっている行為を行い、まるで英雄気取りである。首相というのは国民の最大の幸福のために国民の板塀となって働くものだと石橋湛山も言っていたが、それとはかけ離れた愚挙である。
誰かがいっていた、国が手詰まりになると国民は極右と極左に走ると。