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2014年3月24日月曜日

柴犬


 私は柴犬に好かれる。一般に和犬は飼い主しかなつかないというがそんな事はない。
昨日も柱に繋がれた若いメスの柴犬と会話した。安心したのか擦り寄ってきた。もちろん頭を撫ぜて親愛の情を示した。

ある時、広場で遊んでいるとオスの柴犬とオスの中型犬が喧嘩になった。喧嘩の原因は女の子である。私が仲裁に入ると周りが見えなくなるほど興奮していたオスの柴犬がわたしの腕を噛んだ。痛くはなかった少しだけ血が出た。

その後の柴犬が面白かった。何となくやってはいけない事をしたというバツの悪い顔で私に寄ってきておべっかを使う。体を擦り付けてきてお腹まで出してしまう。そしてその後合うといつも決まってその動作をするようになったのだ。

私の柴犬贔屓はしばらく続きそうである。







2014年3月20日木曜日

目黒のさんま

 妻の実家は茶屋坂の上にある。昔は富士山も見えたというが、今は清掃工場の煙突が正面に見えるだけだ。
ご存知のようにこの坂は江戸時代将軍家の鷹狩の帰りに、将軍が茶屋でサンマを所望し、あまりの美味しさにさんまは目黒に限ると言わせしめたという逸話が残っている。
秋はさんま祭りなる催し物も行われる。そのサンマは宮古産を使用していたが震災の影響で北海道産に変えられたというが今年はどうなのだろう。並んで食べたことはないが心配である。
実家の前には大きなボーリング場があったという。私は知らないが夏にはプールが開かれ有名芸能人がステージに上っていたという。妻は運動音痴なのに水泳が得意なのはその家の前のプールに毎日通っていたせいかもしれない。今は高層の薄っぺらのマンションになっている。
町名の三田は港区の慶応大学のある三田と同名である。理由は春日神社がともに氏神であって、おそらくその分社が出来た時に地名を拝領したのかもしれない。
妻の実家から防衛庁の施設局が見える。ここには巨大なプールがあって戦前にはこのプールで伊号なる日本の名潜水艦が開発されたと聞く。
義父もなくなりもう行くこともなくなってしまったが、妻にとっての故郷はこの茶屋坂なのである。



2014年3月17日月曜日

相対化と絶対化

 私も含めて歳を取ると物事をはっきりと白黒つけたがる傾向がある。私も注意しなければならないと自省する。
「下流社会」の著者は私と奇しくも同期である。彼は社にいた頃から都市と郊外について文化的側面も踏まえて考察してきた。だから彼の言う「ファスト風土化」という言葉も頷ける。

 私の住んでいる田園都市沿線は彼の言う典型的郊外である。多くの人が都心に働きに出掛け、夜遅く寝るためだけに戻ってくる。同じような小田急線も同様に典型的郊外を形成する。三浦しおんの小說「まほろ駅前多田便利軒」は同名のモデルとなった町田駅を中心とした小說であるが、現実の町田も犯罪が多く、夜は物騒で歩けない。
彼の言うとおり路上に直に座り、ファストフードを飲み食いする若者もこの沿線に多いのも事実だ。こうした若者は歴史や文化、地域のネットワークから外れ、マイホームレスチャイルドと彼は命名している。

 しかし私はあくまで自分の周りを見るとこうした若者が見当たらない。夜遅く寝るためだけに帰ってくるサラリーマンも多いかもしれないが、私の周りは少数派である。ある友人は親子鷹宜しく息子に野球を教え、甲子園で優秀を果たした。そしてその息子は大学を卒業し無事エリート企業に就職した。その友人はもちろん超多忙である。
また別の友人は大手メーカーの重職を定年で辞した後も、仕事を続けて欲しいとたっての要請を受けメイドインジャパンの先鋒として世界中を飛び回っている。もちろんその子供たちは立派に職を得、結婚し独立を果たしている。

 マーケティングしいては社会学の宿痾のものとして仕方のないものなのかもしれないが、相対的に評価しようとするとピントがズレる。マイホームレスチャイルドが出来るとすればそれはそもそも親自体がその素地を持ち、なるようにしてなったのではないだろうか。それに悪い行いのほうが目立つし、話題にもなりやすいだろう。玉石混交ということだと思う。

 地方の郊外化はいけないと食い止めることは出来るのだろうか。ファスト風土化することはいけないことなのか。私には何だか時代に棹さして昔はよかったと言っているようにうつる。ある討論番組で若者が私達くらいの大人に「あなた方が巻いた種で育ってきて、この時代が悪かったというのは無神経すぎる」と言っていた。
彼らは生きる時代を選べない、今あるのが彼らの時代なのだ。相対化しようとすると多様性が見えなくなる。また、絶対化しようとすると潮流が読めなくなる。どちらも注意したいものである。










2014年3月16日日曜日

回鍋肉

 言葉の中には何回も同じ間違いを繰返してしまうものがある。回鍋肉もそのひとつ。この漢字をメニューで見るとハイコーラーかカイホーローになってしまう。どうも頭のなかで配線がごちゃごちゃになっている感がある。先日も家人に笑わられた。
仙人掌と書いて何と読むか。これは間違えないサボテンである。無花果と書いてイチジクと読むこれも間違えない。では饂飩と書いて何と読む。私はワンタンと言ってしまう。何故だろう、雲呑はワンタンと読めるのに饂飩をワンタンといってしまう。いつも不思議で仕方ない。

しかし、これには2つの事が影響しているように思うのだ。私の生まれ育った北関東の街ではワンタンと見紛うほどのペラペラのうどんを食した。当地ではこの麺をひもかわとも呼ばれたが、とにかく腰がなくペラペラだった。祖母などワンタンの皮がないときにはこのうどんで代用したほどだった。

そしてもうひとつ吉田戦車の漫画に喫茶店で「うどんください」という題のものがある。普通ならナンセンスで笑うところだが。私の街では純喫茶にもスナックにもうどんはあったのだ。もっともそれは十分な汁に付けられた丼に入ったうどんではなく、紅生姜がちょこんとのった焼きうどんだったのであるが。

とにかくこういった摺り込みは中々頭から離れない。饂飩を咄嗟に効かれるとついワンタンと口をついて出てしまう。いかんいかん。

そうでなくても何歳と聞かれると信長の歳と同じくらいと5年位前から言っているのだから。



2014年3月14日金曜日

わたしの3.11 その2 大衆心理

 東日本大震災から3年がたつ。私はあのとき比較的に多くの物事を俯瞰してみることができていたような気がする。何故なら、腰痛をブロック注射までして無理をした結果、背筋が肉離れを起こして動くこともままならなかったからだ。

 多くのニュースで日一日亡くなる人の数が増えていった。それはまるで何かのカウンターによって計られた機械的なもので人の死とは無縁のような形で。そして流言飛語、会社のスタッフには友人からメールが届き、千葉にある精油所が爆発してガソリンが足らなくなると真顔な話が流されていた。東電の幹部という人から聴いた話というのも流れていた。もはや、日本中が放射能汚染になり、国民はほとんど死に至ると。劇場化したマスコミもそうした話はすぐ取り上げる。実際に東京を離れて関西に移り住んだ人も多くいた。

 コンビニからカップ麺がなくなり、トイレットペーパーも、携帯ガスボンベも無くなった。私はその体だったので車が無ければ移動できなかった。それでも車を使ったのは震災から5日が経った時だった。ガソリンスタンドでは長蛇の列。出来るだけ燃料を使わないように意識した。スタンドの人に聞くといつも滅多に来ないような人がガソリンの針が一メモリが減ったからといって2時間も長蛇の列に並んでいるとのことだった。

 困ったのは停電だった。私達の生活の多くが電力に頼っていることが分かった。
ところが昨年の夏場のピークでも計画停電はなかった。停止している発電所が再稼働したというニュースを聞いたわけでもないのにどうして大丈夫なのだろう。もしかしたら当時の停電もパニック心理だったのではあるまいか。そう疑ってしまう。

 先日、大雪で3日間軽井沢に閉じ込められた。鉄道、道路とも完全に閉鎖され陸の孤島となった。運転手の多くは何とか行けるだろうと無理をして碓氷バイパスに集中した。まるであのときの都内の道と同じに車が一箇所に集中した。道路が開通していない事は分かっていても車を出発させ戻れなくなりレスキューしてもらった人もいた。コンビニからカップ麺はなくなり、パンも姿を消した。私はあのときの経験からなるようにしかならないと居を移さずじっとしていた。予定していた期間を大幅に超えたので予備の犬のご飯も残り少なくなった。開いている店を探して雪の中歩いて買い物に行こうとすると、見ず知らずの女性が分けてくれた。とても安心した。私達は毎日同じ料理を食べながらも、食にありつけ、暖かい寝床があることに感謝した。

 大衆の心理というものは極端になりがちだ。リスクを過度に感じたり、逆に鈍感であったりする。どちらも良くない。津波の災害を避難するような過急な場合以外は出来るだけ動かずじっとしている。それがあの震災から学んだことだ。昨日もラジオから大震災の際には車の使用を控える旨の放送をしていた。控える旨ではなく、強制的にも禁止するべきだと思う。軽井沢でも救急車が動けなかったのだから。


あの日もやってきたヒヨドリは私たち人間を見てどう思っているのだろう、いつか尋ねてみたい・・・






2014年3月12日水曜日

家族考

 この一、二年本当に色々なことが重なった。娘が嫁ぎそして出産し母になった。今はその家族と暮らす新居を建てている真っ最中である。娘自体その変化に驚いているようだがとても楽しそうだから何も心配はしていない。

息子も昨日家を出た。家を出たと言っても家出をしたわけでも仲違いをしたわけではない。彼のスタートとしてのレジデントが必要で我が家からは通えないからである。26歳になっているのだから私が家を離れた18歳に比べれば遅すぎるくらいであるし、戦地に赴く訳ではないのでこちらも心配はしていない。彼にとっての新しい家族との出会いを待ち望むばかりである。

 娘も息子も私たち夫婦に神様が与えてくれた宝物であって。私たちはほんのいっときこの宝物を育てる使命と幸福を与えられたのだと思う。

 私の周りにも子供を手放さない親が多い。いや、子供が出て行かないというがそれは誤りだ。知らず知らずのうちに親に洗脳されている事が多い。本音を言えば親としてはそれでもいいとあえていう。子供を手放すのは寂しいし、手足を引きちぎられる思いだから。

 しかしあえて子供のことを考えれば独立させなければならない。動物がそうするように子供を社会に戻し還元させなければならないからだ。そして自分の新たな家族を作り私達と同じように子供を育てる喜びを味あわせてあげたい。私達が先に死し、子供に見守られなから死んでいく幸せを同じように味あわせてあげたいからだ。

 家族とはそんな一時の屋根の下で暮らした追憶なのかもしれない。









2014年3月11日火曜日

わたしの3.11

 あの日私はソファに寝ていた。一週間前に痛めた背中の肉離れが治らず自宅にいたからだ。妻は京都に大学の研究の打ち合わせで出掛けている息子を除いた娘と私と三人の夕餉の支度をするために隣町のスーパーに買い物に出掛けていた。

 窓の外にはまだ風は冷たいものの春光と呼ぶに相応しい太陽の光が注がれていた。

 揺れは突然起こった。私の家には六メートル近い高さの本棚が壁一面に備え付けられている。大きく揺れる中、咄嗟にこの本で押しつぶされると感じた。幸い老犬の一匹は大きな頑丈な丸テーブルの下で眠っていた。ところがもう一匹は何か不安を感じたらしく私のそばに来て顔を見ていた。もはやこれまでと思いその犬を抱き寄せたが、揺れは数回続いたものの、一番大きな揺れ以上にはならなかった。それでもキッチンのカウンター上に吊り下げられた照明がアメリカンクラッカーのように揺れ続けていた。

 揺れが落ち着いてからテレビを付けてみようとしたが停電のためつけることは出来ず、電話も不通だった。

 備え付けの本棚だったことが幸いして本は一冊も落ちてこなかった。私は家の周りの様子を見たくても動けず、妻の帰りを待った。妻は丁度レジで精算を済ませようとした時に地震が来たと言っていた。結局、パニックになった見ず知らずの若い女性を介抱して何も持たず帰ってきた。娘が帰ってきたのは暗くなってからの事だった。

 ラジオから地震の規模や津波のことが伝えられた。電気が回復してテレビからその様子を見た時には末恐ろしさのあまり言葉を失った。9.11のときまるで映画のワンシーンかと思ったのとは違う、自然の脅威のあまり言葉を失ったのだ。

 大叔母は死んでしまったが、その子供たちが石巻で旅館や結婚式場をやっていた。大叔母は祖母や母、叔父が満州から引き揚げてきた時にとても親切にしてくれたようだ。祖母と大叔母は仲が良かった。現役を退いてからは祖母と歌舞伎を見るためにちょくちょく上京していた。そんな折、渋谷に勤めていた私のところに顔を出した。大叔母と祖母と私でお昼に稲ぎくの天ぷら定食を食べた。それが大叔母との最後だった。
大叔母の子供たちの家や店は海沿いにあった。一度、母と叔父と私で大叔母の周回忌に行ったことがある。磯の匂いと海風の湿気を感じる風光明媚な場所だったことを覚えている。

 それがあの津波で観るも無残な姿になっていた。私は暫く誰にも石巻の事を聞く気にもならなかった。義父が宮古の出身で同じような気持ちだったという。

 原発の事が報じられたのも同時だった。ところがいざ問題が詮らかになっていくと色々な事を言う輩が現れる。私が当時も今も最も腹ただしいと思ったのは、この国はもうすぐ人が住めなくなる、だから自分の子供たちは海外に避難させたという専門家と称する人種たちである。この人達は今何をしているのだろう。逃げようにも逃げ出せない多くの国民はじっと我慢して生きてきた。その事を思うと必要以上に国民に不安を煽り、風説を流した罪は重い。

 災害から一年以上が過ぎようとしていた時、尊敬する法律家から3冊の本を推薦された。その中でも最も心に残ったのが「3.11後の建築と社会デザイン」という平凡新書だった。奇遇にもこの本は会社の同期である三浦氏が執筆しており、私も読了したばかりだった。

 その後の政府や自治体が何もしなかったとは言わない。ただ、その本が示す通りのことが起こっているので私にはやはりこの国の指導者があまりにお粗末だと言う他にない。高齢化や少子化という災害とは別の潮流が当時より流れていることを無視した復興計画。公共投資が先行し、被災者の住宅復興に手が回らない日本の建築業の有り様。復興予算だけ取り敢えず貰っておこうとするビジョンのない自治体、そして右側に舵を戻し原発の存続を前提にした国民を無視した政府、何もかもこの国の現状だ。

 それでも被災者も生きている。これが唯一この国が誇れるものなのではないか。あの日不幸にも亡くなった全ての尊い命に向かって黙祷するばかりだ。