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2014年3月27日木曜日

昭和の犬

 テレビの事で昭和っぽいと揶揄したが、私が少年時代いつも側にいるのは雑種の犬だった。裏手の河原には野犬がいた。これは危ないので保健所の係の人(私たちは失礼にも犬殺しと呼んでいた)が捕まえて持ち帰っていた。車に積まれいつまで遠吠えをしていた白黒のぶちの犬の目が忘れられない。

 子犬は神社の社の下に段ボールに入れ捨てられていた。やっと目が開いたその犬を段ボールごと抱きかかえ家に持ち帰った。母いつも決まって飼っては駄目というが、私の泣き落としが失敗したことはなく、最後は仕方ないと言って飼うことを許してくれた。最初に飼った犬はコロと名づけた。2.3年生きたが病気で死んでしまった。次の犬はタヌといった。目の周りがぶちになっていた。この犬も2.3年で死んだ。当時の犬小屋は屋外にあり、北側で日の差さない劣悪な場所にあった。父親の手作りの犬小屋は粗末で北風が入り込み、犬は丸くなって寒さを凌ぐしかなかった。

 父親が誰も面倒を見ないと珍しく語気を荒らげて山奥に捨てに行ったことがある。しかし、翌日には何食わぬ顔でその犬は犬小屋で寝ていた。その時キソウホンノウという言葉を知った。

 3匹目はチコといった。高校生の頃だった。暫くすると彼女の足は外側に大きく曲がりはじめた。彼女は動物病院に初めて連れて行った犬だった。病名はくる病。日光不足が災いした。彼女は避妊手術もした。雑種だったが気が強く、食べている時に手を出すと家人の手でも噛み付く。しかし、私だけには従順だった。

 私が進学で上京した年に母が子宮筋腫の手術をした。母は犬の面倒を見ることが出来ず私に黙って保健所に渡した。私が何かの用で実家に帰ると犬小屋にチコの姿が見えない。母を問いただすと渋々本当のことを言い出した。私は急いで車のハンドルを握りアクセルを目一杯吹かして保険所に向かった。保健所の冷たいステンレスの仕切りの一番奥にチコはいた。なんとか間に合った。チコは私を見ると全身で喜びを表し、子犬のように甘えた。私はチコを奪い取り車に載せた。チコにゴメンネといい涙が止まらなかった。取り残された保健所の犬達が哀れだった。
そのチコも母が再婚をすることになり。山奥の農家に預けられた。真偽の程は確かめたことはない。ただ、そう思うことにしている。それから犬は飼わないと心に決めた。
今私の膝の上に11歳になるレオンベルガーのサクラが顔を乗せている。もう一匹の14歳のセプはテーブル下の定位置で夕食の準備を待っている。平成生まれのサクラもセプも、昭和生まれのチコやタヌ、コロも、ただ人のそばに一日でも多く居たいと思っている。これには平成も昭和もないのだ。




2014年3月26日水曜日

あわない奴

 私は人と合うときに先入観に引きずられないように出来るだけその人の良い面を見ようと努力することにしている。学歴や職歴など些細な事は聞かない。なんていうと偉そうに聞こえるがそうではなく、普通の人以上にバイアスに引っ張られる傾向があることを知っているからである。聞くことは一つ今何に熱中しているのか尋ねる。それでも半数以上は熱中しているものがないと答えが帰ってくる。そういう人とはあまり親密にはならない気がするが、これとて長い年月という押し蓋にかかれば馬の合う人となりえるかもしれない。事実、学生時代、こいつとだけはウマが合わないと思っていた男と30年以上付き合い、今では一番の相談者だ。

 なぜあわないと思ってしまうのだろうか。考え方が反対だからとも言えまい。逆に似ているからか、それもそうとは限らない。なぜなのか手繰ってみると、その時々であわないものが違うことに気がつく。例えは難しいが、その時々の自分の価値観の相克とでも呼べば良いのか分からぬが、そうなってはいけないと自分に言い聞かせる心の叫びに似ている。

 あわない奴が嫌いとかそういうのではなく、あわないただそれだけのことだ。カレーやラーメンについて執筆しているIKという人がいる。行ったことはないが横浜にあるカレーミュージアムの初代館長にもなったことがあるようだが、この人とはとにかくあわないのだ。この人が好きとか嫌いとか抜きにしてとにかくあわない。彼がプロデュースするカレーを食べたが違う意味で鳥肌が立った。カレーで食べられないこと自体珍しい。

 その人が絶賛していた湯島の親子丼を食べた。例えあわないと分かっていても乾坤一擲その努力は惜しまないのである。しかし食べてみて何で絶賛していたのかやはり分からない。玉子は極端に硬くなっているか生かどちらかで、鶏肉は塩辛い。丼というのはひとつの宇宙である。宇宙の中ではそれぞれが混ざり合ってひとつの宇宙を作らねばならぬのに、一つ一つがバラバラ別の方向を見ている。これでは丼もの失格である。やはりあわなかった。会わない奴と理解し、調停しようと試みる訳であるがこれがなかなか難しいのである。


2014年3月25日火曜日

昭和ライクな


 私など体の半分が昭和なのだから仕方ないにしても、娘は28歳なので、生まれてからの大半は平成な訳であるが案外その考え方は昭和っぽいのである。

私が幼かった頃、テレビはリビングの中央に恭しく置かれていた。家によっては床の間に置かれていたところもある。テレビには決まってゴブラン織の布が掛けられていて、その布を開けてテレビのスイッチを押し、チャンネルの指導権を持つのは一家の長たる親父だった。白黒からカラーに変わり、ガチャガチャ回すチャンネルもリモコンに変わった。重くて大きな箱から平面で軽い液晶に変わった。

 昭和生まれの人の多くは大きいテレビを欲しがる。出来ればまだ他の家にないような高機能のテレビを欲しがる。ところが平成生まれの人達の中にはテレビに興味が無い人も多い。息子などテレビを情報端末の一つと割り切っている。小さなワンセグのテレビでいいと言う
。これは息子に限ったことではない。息子の友達もテレビはほとんど見ないという。
ところが娘は違う。今建て始めた家には大きなテレビが置かれるという。テレビ台もリビングの中央に置かれ、それはそれは昭和全としているのである。




2014年3月24日月曜日

柴犬


 私は柴犬に好かれる。一般に和犬は飼い主しかなつかないというがそんな事はない。
昨日も柱に繋がれた若いメスの柴犬と会話した。安心したのか擦り寄ってきた。もちろん頭を撫ぜて親愛の情を示した。

ある時、広場で遊んでいるとオスの柴犬とオスの中型犬が喧嘩になった。喧嘩の原因は女の子である。私が仲裁に入ると周りが見えなくなるほど興奮していたオスの柴犬がわたしの腕を噛んだ。痛くはなかった少しだけ血が出た。

その後の柴犬が面白かった。何となくやってはいけない事をしたというバツの悪い顔で私に寄ってきておべっかを使う。体を擦り付けてきてお腹まで出してしまう。そしてその後合うといつも決まってその動作をするようになったのだ。

私の柴犬贔屓はしばらく続きそうである。







2014年3月20日木曜日

目黒のさんま

 妻の実家は茶屋坂の上にある。昔は富士山も見えたというが、今は清掃工場の煙突が正面に見えるだけだ。
ご存知のようにこの坂は江戸時代将軍家の鷹狩の帰りに、将軍が茶屋でサンマを所望し、あまりの美味しさにさんまは目黒に限ると言わせしめたという逸話が残っている。
秋はさんま祭りなる催し物も行われる。そのサンマは宮古産を使用していたが震災の影響で北海道産に変えられたというが今年はどうなのだろう。並んで食べたことはないが心配である。
実家の前には大きなボーリング場があったという。私は知らないが夏にはプールが開かれ有名芸能人がステージに上っていたという。妻は運動音痴なのに水泳が得意なのはその家の前のプールに毎日通っていたせいかもしれない。今は高層の薄っぺらのマンションになっている。
町名の三田は港区の慶応大学のある三田と同名である。理由は春日神社がともに氏神であって、おそらくその分社が出来た時に地名を拝領したのかもしれない。
妻の実家から防衛庁の施設局が見える。ここには巨大なプールがあって戦前にはこのプールで伊号なる日本の名潜水艦が開発されたと聞く。
義父もなくなりもう行くこともなくなってしまったが、妻にとっての故郷はこの茶屋坂なのである。



2014年3月17日月曜日

相対化と絶対化

 私も含めて歳を取ると物事をはっきりと白黒つけたがる傾向がある。私も注意しなければならないと自省する。
「下流社会」の著者は私と奇しくも同期である。彼は社にいた頃から都市と郊外について文化的側面も踏まえて考察してきた。だから彼の言う「ファスト風土化」という言葉も頷ける。

 私の住んでいる田園都市沿線は彼の言う典型的郊外である。多くの人が都心に働きに出掛け、夜遅く寝るためだけに戻ってくる。同じような小田急線も同様に典型的郊外を形成する。三浦しおんの小說「まほろ駅前多田便利軒」は同名のモデルとなった町田駅を中心とした小說であるが、現実の町田も犯罪が多く、夜は物騒で歩けない。
彼の言うとおり路上に直に座り、ファストフードを飲み食いする若者もこの沿線に多いのも事実だ。こうした若者は歴史や文化、地域のネットワークから外れ、マイホームレスチャイルドと彼は命名している。

 しかし私はあくまで自分の周りを見るとこうした若者が見当たらない。夜遅く寝るためだけに帰ってくるサラリーマンも多いかもしれないが、私の周りは少数派である。ある友人は親子鷹宜しく息子に野球を教え、甲子園で優秀を果たした。そしてその息子は大学を卒業し無事エリート企業に就職した。その友人はもちろん超多忙である。
また別の友人は大手メーカーの重職を定年で辞した後も、仕事を続けて欲しいとたっての要請を受けメイドインジャパンの先鋒として世界中を飛び回っている。もちろんその子供たちは立派に職を得、結婚し独立を果たしている。

 マーケティングしいては社会学の宿痾のものとして仕方のないものなのかもしれないが、相対的に評価しようとするとピントがズレる。マイホームレスチャイルドが出来るとすればそれはそもそも親自体がその素地を持ち、なるようにしてなったのではないだろうか。それに悪い行いのほうが目立つし、話題にもなりやすいだろう。玉石混交ということだと思う。

 地方の郊外化はいけないと食い止めることは出来るのだろうか。ファスト風土化することはいけないことなのか。私には何だか時代に棹さして昔はよかったと言っているようにうつる。ある討論番組で若者が私達くらいの大人に「あなた方が巻いた種で育ってきて、この時代が悪かったというのは無神経すぎる」と言っていた。
彼らは生きる時代を選べない、今あるのが彼らの時代なのだ。相対化しようとすると多様性が見えなくなる。また、絶対化しようとすると潮流が読めなくなる。どちらも注意したいものである。










2014年3月16日日曜日

回鍋肉

 言葉の中には何回も同じ間違いを繰返してしまうものがある。回鍋肉もそのひとつ。この漢字をメニューで見るとハイコーラーかカイホーローになってしまう。どうも頭のなかで配線がごちゃごちゃになっている感がある。先日も家人に笑わられた。
仙人掌と書いて何と読むか。これは間違えないサボテンである。無花果と書いてイチジクと読むこれも間違えない。では饂飩と書いて何と読む。私はワンタンと言ってしまう。何故だろう、雲呑はワンタンと読めるのに饂飩をワンタンといってしまう。いつも不思議で仕方ない。

しかし、これには2つの事が影響しているように思うのだ。私の生まれ育った北関東の街ではワンタンと見紛うほどのペラペラのうどんを食した。当地ではこの麺をひもかわとも呼ばれたが、とにかく腰がなくペラペラだった。祖母などワンタンの皮がないときにはこのうどんで代用したほどだった。

そしてもうひとつ吉田戦車の漫画に喫茶店で「うどんください」という題のものがある。普通ならナンセンスで笑うところだが。私の街では純喫茶にもスナックにもうどんはあったのだ。もっともそれは十分な汁に付けられた丼に入ったうどんではなく、紅生姜がちょこんとのった焼きうどんだったのであるが。

とにかくこういった摺り込みは中々頭から離れない。饂飩を咄嗟に効かれるとついワンタンと口をついて出てしまう。いかんいかん。

そうでなくても何歳と聞かれると信長の歳と同じくらいと5年位前から言っているのだから。