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2011年8月26日金曜日

茜雲 初秋 

レンの家族が住む家は三島といっても山の高台にある。
天気がよければ富士山も見える。三島からは相当登らなければならない。町は見晴台。
こういう坂道には電気自動車はあまり強くない。レンはモーターは一定の出力のため重力が大きくなると慣性の法則が成り立たないと何かの本で読んだことを思い出した。

レンの父親は口癖のように「医者といっても開業医でなく、俺みたいにあっちの病院、こっちの病院と転勤しなければならないような人間には定住する家はいらない。家を買うときは医者を辞めるときだ」と言っていたのに、葉山からここに移る本当の理由は自転車に乗るためだったから少し頭にきた。

レンの父親は10年前からロードバイクにはまり、車など全く興味の無い人間なのに、自転車の話をするときには目を輝かせていた。父のバイク(ロードバイクを乗る人は自転車をこういう)はフランス製のカーボンバイクだ。なんでもそのメーカーはカーボンバイクのパイオニアとの父の説明だった。

ここ三島は「峠好き」にはたまらないロケーションだ。何分、箱根の峠という峠がその対象なのだから。

レンにはなんであんなにただ辛いだけの上り坂が好きなのか全く理解できなかった。

トヨタのハイブリットカーは音も静かで、家の前にすーと到着した。

レンがチャイムを鳴らすと、母が迎えに出てきた。母は真っ赤なエプロンをして、うっすらと化粧をしているようだった。

この母はレンの実の母ではない。義母なのだ。実の母レンが10才のとき行方不明になってしまった。父は当時、あちこちを探し回ったが、色々な話からどうやら他の男と家出をしたらしいということを聞くに及んで、探すことを止めてしまった。レンは母にはもう会わないと子供心に決心した。

それから家では母の話をしなくなった。

一度だけ母が住んでいると聞いた埼玉のK市に、レンは電車を乗り継いでこっそり会いに行ったことがある。そのときの母は娘と思しき小さな女の子と家の前の公園で遊んでいた。レンを見るやいなや駆け寄り、千円札数枚をレンに渡して「旦那がすぐ来るから帰って、お願い」といわれた。

レンは千円札を投げつけると、後ろも振り返らずに駅に向かった。信号も看板も滲んで見えなかった。

それ以来母はレンの心からも記憶からも消去された。

父が今の母をレンに紹介したのは15才のときだった。彼女はレンのために子供の好きそうなハンバーグやから揚げを作ってはレンの機嫌をとろうとした。

レンは義母のことが嫌いではなかったが、父と二人だった頃の納豆、めざし、やきそば、冷奴の食事に慣れていたので、レンのことを気に留めたそんなメニューは気が引けた。

そんなこともあって、レンは残ることにしたのだ。

義母はレンに向かって「そのお嬢さんがレイさんなのね。綺麗な方ね」笑顔とは裏腹につま先から頭まですべての情報をインプットするかのような視線で見ていた。

レンが「親父は何時頃帰るの」と目線を遮るかのように聞くと、義母は「今日は早く帰るって言っていたからもうじきだと思うわよ。それより、お嬢さんにお先にお風呂にでも入ってもらったら 疲れたでしょ」となかば決め事のように強引に催促した。

レイは「私はまだ結構です。お父様にお会いする前にお風呂なんていただけません。レンさん入ったら」とレンの目を見ながらレイは顕かなNOのサインを送ってきた。

「うん、俺運転で疲れたから入ろうかな」と風呂場に向かって立ち上がった。

この家は中古の住宅を買ったので、ところどころに当時のインテリアが残っていた。竣工したのは今から30年前。購入してから壁紙と床、台所とトイレは改装したのだが、風呂はそのまま使っている。だからいまどき使わないようなピンクの壁タイルやシチリアの海に炭を混ぜ込んだような濃い色の浴槽もご愛嬌だ。

風呂場の窓を開けると西の空に茜雲が見えた。季節は夏から秋に移ろうとしていた。

湯上りに義母の出してくれた枝豆とビールをレイと一緒に食べた。なんでも家の近くの農家の人が父の患者さんで、自宅でとれるダダチャ豆を毎日のように持ってきてくれるのだという。

レンが東京で食べる水っぽい枝豆とは全然違う。確かに旨い。ただビールの冷えが足りないことがレンには不満だったが、父が冷たい飲み物が苦手で、ビールの適温は12度という訳の分からないこだわりをもっていたことを思い出した。

店で頼むビールは12度以下なのて゛少し待ってから父は飲んでいたが、レンはこれじゃ炭酸が抜けちゃうとそのこだわりには不満だった。

しばらくするとキィーキィーという自転車のブレーキの音がして父が帰ってきた。ヘルメットを脱ぐと、父がレンを見て「おっ」というまもなくレイを見て「よくいらっしゃました」と頭を下げた。

あれたげ髪の毛の量が多く、剛毛だった父の頭も少し禿げあがったようだ。

父は「シャワー浴びてくるから食事の用意をしておいてくれ」と義母に言うと風呂場に向かった。

風呂場から父の十八番のアリスの歌が聞こえてきた。義母は「いつもこの歌なの。毎日嫌になっちゃう」とまんざら嫌でもないわという高揚した声でレイに向かっておどけてみせた。

レイは「楽しそうですね」とにっこり笑って答えた。

父が風呂から上がり、母の得意料理、鳥のから揚げを筆頭に近くで取れた、とうもろこし、水ナスの漬物、もずく酢が並んだ。

父はうまそうに焼酎のロックとビールを交互に口に運びながら、平らげた。

レンはレイのことを紹介し終わると、自分の今の状況や専門課程を選ぶ時期で自分が迷っていることなども父たちに話した。

父は一言レンに向かって「医業も一般の会社でも同じだよ。理想ばかり追っていてもその理想も変ってしまう。それは自分も変るからなんだよ」

そして父は続けて「今俺はほとんど心臓外科の手術はしていない。目が悪くなったんだ。でもそんなことはじめたときは考えもしなかったよ。心臓外科医といえばエースだとちやほやされて何か勘違いしていたのかもしれない。でも今こうやって新たに心療内科の勉強しているんだ。このあたりの患者には老人が多く、外科医が内科の勉強をするんだから可笑しな話だけど、あの人たちを見ていると必要だと感じたんだよ。だからここでは1年生さ。」と笑いながら焼酎を飲んだ。

レンは葉山にいたころ父が悩んでいたことをはじめて知った。あれほどN先生の片腕とまで言われていた父が、その人生をかけた手術をあきらめてここに来ていたとは知らなかった。レンは心の滓が降りるのを感じた。義母に対する気持ちもすーっーと平らになっていく自分を感じた。





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