人間に与えられた情報で嗅覚味覚ほど原始的なものはない。(と私は思う)
山本一力氏の使う「味憶」とは本当によい言葉だ。
海の無い山国に育った私は高校を出るまで美味しい魚を食べたことがない。
当時の輸送事情を考えれば無理の無いことであろうが、母もそして祖母も概して魚を食べることも扱うことも下手くそである。
母や祖母の名誉のために断っておくが、他の料理は得意なのだ。料理をしないというわけではなかった。祖母は上京して一人暮らしをしている私が祖母のところを訪ねると(祖母は叔父夫婦たちと同居していた)嫁には内緒だとオムレツを作ってくれた。バターで炒めた玉ねぎの入ったシンプルなオムレツ、これがとても旨いのだ。私の卵好きはまさに遺伝かもしれない。
この頃の祖母は料理を作ることを自制していたかもしれない。高齢者の調理事故も多かったし、留守のときに火を使うことは確かに危険だ。むべからん事かもしれない。
一方、妻の祖母は死ぬ間際まで料理をしていた。妻の母代わり(妻は幼い頃母を失っている)の祖母は驚く人だった。人をひきつけるなんともいえない不思議な力を持った人で、理屈で彼女を言いくるめるなんてことは世の聖人とて無理至難と言わざるえない。
祖母の作る料理はいつでも10人前だった。しかしこれがまことに旨い。からす鰈という大きな卵をもった魚の煮付けは絶品だった。適当に入れる彼女の調理は辛くも甘くもなく丁度良い加減で、どんな高級料亭のそれよりも美味しかった。
祖母は人を分け隔てなく接していた。それが人に伝わり、人が人を呼ぶ。妻の祖母の墓は恵比寿にあるが墓参は絶えない。
祖母は妻が母を失ったことを生涯十字架のように背負って、懸命にしかし背筋をピンとして生きていたのかもしれない。そんな祖母に乾杯である。
味憶で言えば私には車の師匠がいた。Hさんである。Hさんは足が悪く、ホンダのスーパーカブをその足の代わりのように見事に乗りこなし、毎朝私のところにやってきてくれた。おそらく死んだ父と同年齢ぐらいだったのではないか(父は明治生まれ)
日本に車が走る前から塗装の勉強をして親方から免許皆伝をもらったような人であった。日本人でプロの塗装工として認められた先駆者であった。こんな師匠から車のあれこれを教えてもらった。
私がプジョーを買おうとすると、「いやいやあれはいけねえ、あの鉄板はぺらぺらで、エンジンは安普請さ。もし外車買うならランチャにしな。あのエンジンはいい。もっとも金あるならベントレーにしな。あれゃいい、機関車のようにドッドッと長いストロークで力強いから最高さ」こんなことを平然と言っていた。
結果、初めて手にした外車はランチャだった。確かにすごく良い車だったが、一年の半年は修理工場に居たようなものだから、壊れるのは当たり前。直ればめっけもん、そんな車だった。今でもランチャのシートが最高だと思う(レンジローバーと金銀の争奪戦ということだろう)
誂えで作ったバーバリーのコートには同じく誂えた帽子もあった。当時の職人は宵越の銭は持たないといい、給金のほとんどは使っていたようだった。足袋のこはぜは金だっというからどのくらいお洒落だったのか分かるでしょ。
毎朝、事務所に来ると私と色々な話をした。同業の人と会うことは苦痛以外のなにものでもなかったが私はこの翁との時間は一日の貴重な時間でもあった。
H氏は美味しいものを教えてくれた。今の情報誌のような「食べてもいない情報」ではなく、自らが経験して美味しいと決め込んだものを私に教えてくれた。
色々なところへ行った。小田原に美味しい干物があると聞けばそこに、柴又の参道に美味しい鰻屋があると知ればそこに、品川に江戸前の天麩羅屋があればそこに、そういう具合には30代の私はHさんに美味しいお店を身をもって教えてもらった。感謝である。
Hさんは甘いものが好物だ。当時の事務所は布製の椅子だったので、Hさんが帰ったあとは菓子の食べこぼしで、Hさんがいたことを誰もが知る由となった。事務のYさんは困ると言っていたが、私にはHさんの残像のように愛おしく感じたものだ。
私にこんな親父が生きていたら、ぜってえ塗装職人になっていたと思う。
Hさんは死ぬ数年前に私に「おれゃいい人生だったけど、息子たちが心配だ。一人息子で細君が馬鹿っ可愛いがりしていたから、駄目になっちまって、心配さ。だけど俺の財産が全部なくなっても仕方ねえ。俺は腹くくっているよ」と私に言った。
私は翁の死後、本来なら十分に支払い可能な債務だったが、さらに収益性を高めるように努力し金融機関とも折り合いをつけた。そして個人的にも出来る限りの応援をしたものの、使う本人たちのその後の自制は利かず、結果、翁の心配していた状況になってしまった。
当人たちのために私は最善の努力をしたが翁にはどう写ったのか分からない。
翁が言うには虎ノ門でビリヤードをしながら手早い昼食で済ませるためにはうな重が一番だったようだ。
そんなことが走馬灯のように蘇る。味憶とは家族そして経験によって培われるものだとつくづく思うこのごろてある。
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