季節は街路樹のモミジバフウの葉を落とし、初冬に差し掛かっていた。
菊坂の下宿の隣の自動車修理工場の親方はこのモミジバフウが大嫌いでいつもこんなことを口癖にしていた。
「この木は葉っぱ大きすぎるのがイケネエ、排水溝は塞ぐし、屋根の樋も詰まっちまう。なんでこんな木を植えるのかお上の考えがわからねえ」
レンは大学での生活は5年目、免疫の研究室にいた。結果はどうあろうと免疫の研究をしようと、それがマイナーでも、陽のあたらない分野になってもいいと思った。あの日の父親の言葉がレンを後押ししたのだ。
医者なのに来る日も来る日もねずみの尻尾に注射をしている。レンはそのことを後悔していなかった。いや後悔しないと決めたのだ。
レンはこの日、実験動物の慰霊祭に初めて参加した。慰霊祭は医学の発展のために死んでいった全ての動物と人間(こちらを先に書かねばならない)のために慰霊碑が作られている。
上野公園からほど近いこの場所にこんな慰霊碑があることはレンは知らなかった。
慰霊祭の当日は学生でも一応きちんとした恰好で望む必要があった。
レンはスラックスにボタンダウンのシャツにネクタイだ。ベルトがコットンのカジュアルなのは少し気後れしたが、ネクタイをしているのでまあ許されるだろうと参列した。
レンの学校のキャンパスはこの頃には銀杏が多くなる。それが落ちてあの独特の匂いを放つ。れんは苦手だった。
レンは忙しい合間を縫って週に一日だけ家庭教師のアルバイトをしている。友達の紹介だったが、レンが研究や授業が忙しく出来なくなるかもしれないとその両親にいっても、なんとか出来る時間でいいからお願いしたいというお互いの決め事やっている。
教えているのは高校1年生の女の子だ。
今日はそのバイトの日。
レンは西片にあるその家に向かう。このあたりは高級住宅街で、江戸時代、権力を手中にしていた柳沢吉保が作ったといわれる庭園がすぐ近くにあった。
教える教科は数学だ。女の子は数学が苦手で、特にインスピレーションで解かなければいけないような因数分解が苦手という。
レンは心の中でそれは違うと思っていた。何故なら、因数分解も数多くコナシテイルとこんなときにはこういった解が必要だと必然的に見えてくるからだ。勉強にインスピレーションという言葉を使う少女にレンは心の中ではこのままでは「無理だろうと」と思った。
家庭教師が終わると、夕食の時間だ。レンはこの家の夕食に惹かれた。夕食があるから家庭教師をやっているというほうが真実に近い。
この家の奥様が作る料理は垂涎ものだ。今日のような肌寒い季節には熱々のカキフライにポテトサラダ、そこになめこの赤だしとくれば、アルバイト料より魅力的にみえてしまう。
カキフライはほどよい大きさの牡蠣を生のパン粉がつつみ、檸檬をしぼるとジュッと音のするようなもので、シャキシャキのキャベツの千切りの甘さは格別だった。
ポテトサラダは市販のように妙にマヨネーズを抑えたパサパサでもなく、かといってゆですぎたジャガイモがべしゃべしゃした駄作のような代物と違い、じゃがいも、にんじん、きゅうり、玉ねぎが見事にそれぞれの味を主張しているのである。
ここの奥様はなんでも下町の洋食屋の娘さんで小さな頃より実家の手伝いをしていたというから納得である。
レンは夕食を食べ終わり、デザートに出されたチーズケーキとコーヒーも平らげ、一礼しその家を後にした。
レンの携帯に着信が光る。レイからだった。
「明日、夕方のエアーフランスなの(エールフランとは今はいわない)、会える?」
「成田にはいけないけど上野なら会える。少し抜けていくから上野で会わないか」
「上野じゃなく日暮里にして、スカイライナーに載るから日暮里にして、日暮里の駅前の喫茶店に12時」
「OK・・・パスポートなくすなよ、レイ」
「うん」
電話をきったレンはしばらくその液晶の画面を見ていた。
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