私は経済学部出身ですが、文学をなぜ勉強しなかったのか30才を過ぎたころから悔やみました。
哲学や文学は人間と言う幹を太くしてくれます。経済学や法学はいわば実学です。
勉強はどうせ使わないかもしれない知識のためにあるのですから、実学もそれ以外も結局は同じこと。
そう考えると悔やまれます。
W・P・キンセラ(映画フィールドオブザドリームスのシューレスジョーでお馴染みの)「モカシン電報」という小説があります。
ここで出てくる「ギター」と「ラジオ」の差異がインディアンには認められないわけです。
ソシュールの記号論によればインディアンたちは「差異を認識していない」ということです。
つまり「差異の知覚」こそ「意味されるもの」であるからです。
これは英語のsheep、muttonとフランス語のmoutonの違いと同じということです。
日本では雨でも無数の表現があります。桜にしても「残花」と「余花」ではその視点が異なります。
つまりは我々日本人はこの差異を感じやすい神経の持ち主なのです。
我々が感じる違和感とはこのことかもしれません。
話を「モカンシン電報」に戻します。しかしながら、この小説は西欧対未開という二項対立の中に、意味を失ったものの哀れさを描いています。
こうしたものの見方がもっと若いうちに出来たなら、いっそう文学の世界にのめりこんでいたことでしょうむ。
それも幸い???
翻訳の珍本が話題になっています。言語道断です。翻訳をするとういうことは作者の変わりに異言語で作者の心の叫びを著すのですから心してかかって欲しいものです。そんな出版社や訳者は買ってはなりません。
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