ヨシヒコは学校からの帰り道時折り遠回りをした。家から学校に行くにはその遊水地を横切って行くのが早道だったが、朝ならともかく夕方の遊水地の森は不気味だった。
実際にヨシヒコが小学校に上がる前に、3軒隣のタツオ君が行方不明になった事件があった。神隠しではないかとか、ひとさらいに攫われたとか言われたが、次の日の朝、タツオ君は大きな樫の木の根元で眠っているところを警察官に見つかった。タツオ君は無事だった。当時のタツオ君の話によると、白くま(みやまくわがたの大型で産毛が生えていて白く見えるからこう言っていた)を探しに森に入って暫くすると、遠くで梟の鳴く声が聞こえ、猛然と眠くなってしまいそのまま意識を失ってしまったようだ。
今日は一緒のはずのコウイチロウが掃除当番をさぼって、ヨシヒコ一人で掃除をするはめになった。同級生のオサムも手伝ってくれたが、理科実験室がその日の当番だったので、普通の教室のように一気に机や椅子を移動させて掃除をすることが出来ない。ヨシヒコは理科実験室の掃除が苦手だった。
ガラス製の容器を丁寧に扱わなければならないこともあったが、ホルマリンに漬けられた蛙やイモリを見るのが嫌だった。ヨシヒコには何故、彼らがホルマリンに漬けられているのかもっともな理由が見つからない。この容器の中の生物のことを授業で説明を受けた事もなければこれから受けるであろうとも思われなかった。ただ理科実験室の装飾品のようなホルマリン漬けが哀れでならなかった。
理科実験室の掃除を済ませると、タケシとモトヒサが帰るところだった。ヨシヒコと一緒に校門を出たときに西の空は茜色から、群青色に変わろうとしていた。二人はヨシヒコの家とは反対方向で校門を出て、ヨシヒコは右手に、二人は左手に分かれた。
ヨシヒコは今日も遠回りして帰ろうかと思ったが、まだわずかながら太陽の光もあり、早く家に着きたいと言う思いで遊水地の森を真っすぐ抜ける道を選んだ。
この森の奥には池がある。夏の間は苔なのか水草なのか分からないが、緑色が一面に広がり中の水が見えない。秋になるとその緑は消え失せ、今度は底の見えない水面が顔を出す。その澱んだ淵の反対側に小さな祠があった。祠は苔蒸していて文字が書かれているのだが何と書いてあるか分からない。
ヨシヒコは足早にその淵を見ないように歩いていた。プチッという音が足元で聞こえた。数日前に母親に買ってもらったばかりの黒キャンパス地のコンパースのバッシュの紐が切れた。ヨシヒコはその場にしゃがみこんで紐を繋ごうとしたがその切れ方は鋭利に刃物で切られたように2か所も切れていて結び直すのは簡単ではなかった。そうこうするうちにあたりは暗くなり、ブーンというモーターの唸るような風の音が聞こえた。
風の音と一緒に誰かの呼ぶ声が聞こえたような気がした。声はアツシ君に似ていた。
アツシ君は生まれながらに脳に障害を持ち、いつもは通級棟で授業を受けていたが、ときおりヨシヒコのクラスにもやってきて授業を受けていた。アツシ君はとても優しい子だった。いつだったか誰かにいじめられ血だらけになって怪我をしていた猫を拾ってきてただ抱きしめて涙を流していたこともあった。そんなアツシ君であったが、子供は悪魔である。いじめの対象でもあった。反撃しないことをいいことに、多数で鞄を隠したり、机の中にカエルを入れたりされていた。でもアツシ君は怒ったり、反撃したりしない。ただ、笑うだけだった。
そんなアツシ君が死んだ。もともと心臓に持病を持ちそのことが原因で死んだらしい。葬儀には先生とクラス全員で出掛けた。アツシ君の遺影の写真はいつもの笑い顔で、頭に木綿の紐付の帽子をかぶっていた。次々と焼香を済ます人に両親は頭を下げていたが、その両親の顔には何となく安堵の色が窺われた。ヨシヒコはそのことを言うのは不謹慎だと思い、そっと胸の中にしまいこんだ。
風の音がピタリと止み、人の声も聞こえなくなった。祠のあたりに黒い影が見える。人なのか動物なのか分からない。その影は形を変えながら祠の周りをうろついていた。人と犬の中間くらいの大きさだ。ヨシヒコは結びなおせていないバッシュをつっかけるように履きなおし、慌ててその場から走り出した。胸の鼓動は高まり、心臓が口から出そうなくらいだ。
何者かが後ろからヨシヒコを追ってくる気配がした。ヨシヒコは振り返らず遊水地の門の街灯目指して猛スピードでダッシュした。
家では夕餉の準備が終わっていた。母子家庭のヨシヒコは母親が帰って来てから夕食を作るので手の込んだ料理は食べられない。この日も屋台で売りに来た6個のシューマイと千切りのキャベツ、味噌汁と漬けものにご飯だった。ヨシヒコは額の汗をぬぐい食卓についた。
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