ヨシヒコは中学生になっていた。といっても通う中学は小学校の隣で、生徒は小学校の生徒がそのままスライドして中学生になったようなもので、新しい顔ぶれはなかった。そんな中、父親の転勤で隣県の埼玉から転校してきた女生徒が一人いた。名前はヨウコといった。少し日に焼けたショートヘアの似合う彼女は笑うとエクボのできる子だった。彼女には何かはっきりとは分からないのだがこのあたりの子とは違う都会的な雰囲気があった。彼女の家はヨシヒコの家のすぐ近くにあった。借家だというその建物は白くペンキの塗られた瀟洒な建物だった。小さいながら庭もあり、芝生の緑がまぶしかった。それに引き換えヨシヒコの家は戦後建てられた「文化住宅」という安っぽい平屋の建物だった。ヨシヒコには何が「文化」なのかまったく理解できないでいた。
あの恐ろしい深く澱んだ淵のことを忘れかけていた夏のある日、ヨウコがヨシヒコを呼びとめた。
「ヨシヒコ君、土曜日、面白いもの見に行かない?」と突然ヨウコが話始めた。
ヨシヒコはバスケ部に入り、土日も練習だった。ただ今週の土曜日だけは練習がない。この地域の投票所として体育館も練習場も使えないのだ。ヨシヒコは毎週でも選挙があれば良いのにとありもしないことを考えていた。
「何を見に行くの?」
「面白いもの」
「だから面白いものって何?」
「いいの、いいの行けば分かるから」
その面白いものはここから自転車で1時間ほど走ったM町にあるという。M町に人家は少なく一面、田圃ばかりだ。舗装されてない農道の横には用水路が流れていた。
ヨシヒコは小学生の時、このM町にザリガニ釣りに来た事を思い出した。ザリガニ釣りとは言っても、木の棒に糸をくくりつけて、その先にサキイカを結ぶだけのもの。それでもサキイカは「なとり」じゃなきれば釣れないなどと友達と話していた。ザリガニは2種類いた。正式には過去形である。以前は毒々しい赤い色のとげとげのしっかりしたザリガニではなく、ほっそりしてどちらかというと海老に近いようなザリガニもいたのだが、繁殖力の強い侵入者に淘汰されてしまったのだ。
その日は強い夏の日差しが容赦なく体をさすように降り注いでいた。
ヨウコはブルーのサッカー地のショートパンツに白いTシャツで短い髪を後ろでかろうじてしばっている。一方、ヨシヒコはつい最近同級生とお揃いで作った二本線のエンジのジャージに、上はランニングだった。ランニングには紫でアメリカのプロバスケットのチーム名が書かれていた。ヨシヒコは母親に部活に行くといって出てきたのだ。
M町に近づくと、田圃からカエルの声が大きくなってくるのが分かる。ヨシヒコは蛙は苦手だった。何故か蛇もトカゲも平気なのに蛙だけは苦手なのだ。
当時、一番最初にする解剖はフナだった。そして次はカエルだった。このあたりではフナもカエルも自分たちで捕まえてこなければならない。時給自足なのだ。若い理科の女の先生がヨシヒコを指名した。こういうときヨシヒコは要領がよい。あたかもみんなのためというしたり顔で、授業を抜け出すお墨付をもらい、子分を数名を引き連れて蛙を捕獲に出掛けた。そのときもヨシヒコは一切蛙に触りもしないし、探したりもしなかった。6匹の蛙を捕獲したのはヒデオとモトヒサだった。ヨシヒコは剥き出しになっていた体育館のコンクリートの階段に腰をおろし、二人の作業をぼんやり眺めていた。
自転車は埃を巻き上げながら目的地についた。その場所からは見渡しても人家は見当たらない、田圃に囲まれた小さな池だった。電燈も一切ない。小さな池には無数の泡が見える。魚がいるらしい。ヨウコは池の右端の少しくぼんだ所を指さし、あれがその目的のものだとヨシヒコに告げた。
それは鯉だった。ヨシヒコは以前、鯉を飼っていたことがある。釣り堀で釣り上げた鯉をそのまま飼っていたら2倍近くの大きさになったが、一緒に飼っていたメダカは全部食べられてしまった。
その鯉は「ドイツ鯉」という種類だった。正式な名前か分からないが、みんなそう呼んでいた。
ヨウコの指差した先にいた鯉は少し鈍ったような金色をした大きな鯉だった。鱗の大きさが一様ではなく、大小の鱗が左右対称に並んでいた。ヨウコはその顔が人の顔に見える人面魚だと言っていた。確かにそう見えなくもない。しかも、その顔は当時人気のあったフォークグループのボーカルをしていたコウセツに似ているという、コウセツ鯉だった。ヨシヒコは鯉に似ているといわれたその人を頭の中で想像したが、旨く結び付かなかった。
自宅近くにもどってから、いつもの駄菓子屋に二人ではいった。ヨシヒコは袋に入っていたベビーラーメンを台紙からむしり取ると、テーブルに置かれていただ薄い液体の入ったお椀の中にパラパラと落とし入れた。鉄板は熱くなっていた。その液体を流し入れるとジューという音と共に、目の前のヨウコの顔が白い蒸気の中に隠れた。
二人はさして会話もせず、せっせと土手を作っては壊し、ヘラで器用に口に運んだ。熱い口の中にあくまで人工的に色づけされたチェリオのグレープを流して、冷ましながら。
店を出ると夕闇が迫っていた。ヨシヒコはヨウコに明日またといって分かれた。
ヨシヒコのコイの話。
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