Ⅲ
チェックインの時間にはまだ少し早かったので、洋一は小さなボストンバックをホテルのフロントに預けて薄手の鐡紺のダナキャランのナイロンコートを羽織って道路に出た。
この辺りの街路樹は常緑樹が多い。常緑樹と言っても一年中同じ色をしているわけではない。初冬のこの季節になると盛夏のそれとは緑の勢いが違っていた。しばらく常緑樹の続く小道を抜けると辺りが明るくなった。ここは洋一郎の会社で計画しているリゾートハウスの建設予定地にとても近い場所だったが、林に遮られその場所は直接は見えない。さらに進むと街路樹が広葉樹に切り替わる。既に木々の半分の葉が落ちていた。残っている葉は黄色とオレンジ色に奇妙に区分けされ力なく枝にぶら下がっている。
そんな葉脈の向こうに小さな建物が見えた。建物はログハウスのようでもあったが、やけにガラスの部分が多く、そのガラスは手作りなのか湾曲しているように見えた。そのガラスの細い珊の間から中の様子が見えた。建物の中では女性が本を読みながら何かを飲んでいた。建物に近寄って見ると小さな木製の看板に「Michael」と描かれていた。昔からある喫茶店のようだった。洋一はガラスの嵌めこまれた木製のドアを押してその店に入った。
店内は思っていたより明るく、落葉して明るくなった子楢の林に囲まれている。洋一は後で知ったのだが、この店は洋一の生まれる前から別荘族に愛されてきた喫茶店であった。先代のご主人はロシアから日本に移住し、結婚してここに移り住んだと聞く。そして誰もがここのロシアンティーと自家製のピロシキを愛していた。今ではそのご主人は亡くなったが、妻が後を継いでいる。洋一はピロシキと並ぶもうひとつの名物であるチーズケーキとコーヒーを注文した。
洋一はポケットから一冊の本を取りだした。
チューホフの短編集だった。チューホフと言えば「かもめ」「三人姉妹」「ワーニャ叔父さん」「桜の園」などの戯曲が有名だが、洋一は短編集にあった「犬を連れた奥さん」という小説を読み始めていた。まだ冒頭の部分だったが、その犬がポメラニアンであることを頭にインプットしたばかりだった。洋一はページの中のポメラニアンという単語を探して、読みかけの途中のページに追いついた。
数ページ読みおえた頃、コーヒーとチーズケーキが運ばれてきた。コーヒーは群青色の花柄が大きく婀しなわれ薄いブルーで縁どりされたカップに丁度良い分量の液体が注がれていた。コーヒーの表面から立ち上がる水蒸気が、わずかに揺れる湖面と朝靄のように見えた。
チーズケーキはとても上品だった。焼いていないケーキの上にはブルーベーリーが掛けられていた。甘さは抑えられ、かすかにレモンの酸味が効いている。これならコーヒーでなくウィスキーとも相性が良いと洋一は思ったが、その考えは頭の中に戻した。
窓の外に目をやると、リスが木々を駆け回っている。鎌倉で見るそれより一回り小ぶりで体の体幹にそって縞模様がある。洋一は目が慣れてきたのか、先程まで涸れ樹にしか見えなかった木々のあちこちにリスが居ることに気付いた。店内に視線を移すと、先程の女性が中腰になって、床を見つめていた。
女性はグレーのフランネルのスカートにエンジ色のスウェーターとカーディガンのアンサンブルのニットを着ていた。落ち着いたその恰好からか洋一より年上に見えた。
洋一はその女性に向かって何をしているのか声を掛けた。すると女性は洋一を見るでもなく床に目を見据えたまま、「コンタクトレンズ」とだけ答えた。洋一と麗子の出会いだった。
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