Audi S6 avant
上着は脱いだものの汗でシャツが体に張り付き体は悲鳴を上げている。腕まくりをしながら時計に目をやるが汗は袖口からしたたり落ちる。
時計の針は午後3時を指していた。目の前には排気ガスで黄色くぼやけた首都高と藻で汚い緑色に変色した皇居の堀が囲むようにフロントウィンドウにはりついていた。
車は高速に入るや否や北の丸トンネルを抜けたあたりでエンジンが停止した。何度、キイを捻ってもアウディはピクリとも動かなかった。そうこうしているうちに黒色のアウディは真夏の太陽の熱を帯び、室内は息も出来ないくらいになった。
幸い路側帯に止まったので後続車の邪魔にはならない。戸外に出たが今度は直接太陽が攻撃してくる。鞄の中で携帯電話を探すが見つからない。運の悪い時は続くもので、携帯も家に忘れたらしい。やっとのことで電話を見つけレッカー車を手配した。こういう災難は重なる。
考えてみるとこの災渦の予兆はあったのか。今朝シャツを着ようとした時に外れたボタン、道路に轢かれた猫の死骸、電線にとまった三羽のカラス、朝方の悪夢・・・人はこうした事象を強引に結びつけるのか、それとも本当の予兆だったのか。
いや、物事には因果律がある。自分の意識の中で好き嫌いを決めつければ、自ずと好き嫌いは思った通りの関係になる。人間の行為の代替えとして使う機械も人間と同じように意識を持つのか。映画の中で人工知能はそう言っていたのを思い出した。
通り過ぎる人々の顔は見えない。歪んで白く濁って見える。ボンネットを開けて停車しているアウディを見てざまあみろと思う人と可哀想だねと思う人は半々ではあるまい。世の中そんなに旨くはいかないから。
壊れて動かなくなった車はただの鉄クズだ。とんなに高価な車であろうが動かなければゴミ同然なのだ。
この車は並行輸入業者から購入した。もっともな言い訳はこの車が正規輸入されていないことであったが、それ以上に並行輸入業者から購入することのリスクも十分承知していが、今の自分にはこれくらいリスクのあるものが身の丈にあっていると心の中で思っていたのかもしれない。そして40歳の峠を迎え、当たり前という常識に最後の抵抗の様にエンジンのロムと呼ばれるコンピューター制御の装置、ブレーキ、ホイール、タイヤまでも変更した。変更したそれは原型をとどめないようで大人には似つかわしくない車だった。大人とは何だろう。常識や経験で無駄のない人間のことなのだろうか。それとも世間と調和の図れる穏やかな人間の事をいうのであろうか。大人になることは角を丸めて飄々と暮らすことなのか。分からない。分からないがそうなりたくないと思った。だから因果律。
数週間後、修理から戻ってきたアウディの宿婀を払いのけるように売却した。もう一つの宿婀と共に。
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