クリスマス
優太は父や母の誘いにもドアをノックする音にも一切応じようとしなかった。ただ、カーテンを閉め切って真っ暗な部屋の中でひとり泣いていた。
優太がトラという猫を飼ったのは今から4年前になる。優太の通学路にあったスーパーのゴミ置き場の片隅に折りたたまれていない段ボール箱が置いてあった。優太は恐る恐るその箱に近づき中を見てみると、タオルに包まれた薄い茶色の縞模様の子猫がいた。それがトラとの出会いだった。
優太の家は賃貸マンションだった。家に段ボールごと連れ帰ったものの、両親はそのことを理由に優太にもう一度元の場所に戻してくるように強く迫った。
優太は今まで一度も親に反抗した事はなかった。このときだけは違った。どうしても子猫を元の場所に置いてくることは出来なかった。いくら両親が説得しても応じようとはしなかった。子供ながらに強い信念と決意を持っていた。優太はその子猫を抱いてベランダに出て今日から一緒にここで寝るときかなかった。両親は根負けして、このマンションを退出する時には全ての内装を修復する費用を自分たちが負担すると言うことを条件に大家の了承を得た。そしてトラは晴れて優太の家の一員となったのである。
トラは大人しかった。生まれてすぐに去勢したせいもあったが、他の猫にも人間を含めて他の動物にも穏やかで従順していた。
トラには特技があった。トラは優太の鉛筆が好きだった。それも優太の図画工作に使う2Bの鉛筆が好きなのだ。優太が机に鉛筆を散らかしておくと、その2Bの鉛筆を器用に加えて優太の近くに持ってくるのだ。まるで優太に絵を描く事を薦めるように毎回同じ動作を繰り返すのだ。これを見た両親はそれ以来トラのことをトラ先生と呼んでいる。トララは優太にとって初めての家庭教師となった。父親はトラの横顔は何となく芸術家全としているといっていた。帽子でもかぶせたらきっとセーヌの河畔にいる俄か画家よりもよっぽど本物らしいと、パリには一回も行ったことがないくせにいつも笑ってそう言っていた。
トラは家族といつも一緒だった。優太の家の車は父が仕事で使う軽自動車だった。車には父が勤める工務店の名前と電話番号が大きく青い文字で掛れていて優太はトラが家にやってくるまでこの車で外出することが嫌だった。ところがトラが家にやってきてからは違った。トラを連れて外出すると決まってトラを褒められたからだ。
トラは細いリードを付けて外出したが、人がトラを触ろうとしてもトラは嫌がらず撫でさせていた。犬が寄ってきてもトラは優太の顔を真っ直ぐ見たまま逃げることも騒ぐこともしない。そのうち犬はどこかへいってしまうのだ。
トラは鳴かなかった。何かを要求する時もその人の前に近づき、そっと上目遣いで何かを訴えるだけなのだ。そんなトラは家族に大切にされていた。
トラは子供から大人に成長するにつれて薄い縞模様がやや濃くなった以外は何一つ変わらなかった。
その日は初冬には珍しく天気が安定していなかった。生暖かい朝を迎え、優太が学校に着くなり突風が吹き荒れ、大粒の雨が降り出した。優太の2時間目の体育の授業は教室での自習に変わった。優太が帰る頃にはその雨は上がっていたが、寒い北風に変わり真冬の空に変わっていた。
優太が家に着くと、母親があたふたしている。優太の顔を見ようとしない。母親が優太にごめんねと言葉を漏らすと同時に開け放たれていた窓の隙間を指差した。
母親は泣いていた。トラは雷が苦手だった。雷が鳴ると逃げ出して誰から構わず膝の上に乗ろうとする。それもガタガタ震えて。そんなとき人が居ないとトラの不安は増大して、もうどうしていいかわからないような狂乱状態に陥ってしまうのだ。だから、天気が悪くなるようなときは家族のだれもがトラの事を心配して、近くに居るようにしていた。どうしても出来ないときはトラをゲージに入れて落ち着かせた。
今日はほんのちょっとした間に天気が急変して雷が鳴った。母親は窓が少し空いていたことに気付かなかった。大粒の雨の中、買い物先から急いで帰った母親はトラを探したが家の中にはいなかった。ほんの少し明けはなれた窓を見た時に母親はなすすべはなかった。
優太は母親をなじった。母親がしたことがどれほど残酷で惨いことなのか、延々と母親を責め続けた。母親は泣いて謝るばかりだった。
夜になり父親が帰り、三人で近くを探したが結局見つからなかった。翌日、優太は自分が作った探し猫の張り紙を母に頼んで100枚ほどコピーして、近所や公園、トラを拾ったスーパーの近くにも張り紙やポストに投函した。
翌日、優太はトラが見つかるように神様にお願いしていたが、掛って来た電話は表通りのバイパスで猫が轢かれていたという一件だけだった。その猫は黒い縞模様のトラとは違う野良猫だったが、優太の心配は一気に増大した。
窓の外は相変わらず寒い北風が吹いていた。今年の冬一番というクリスマス寒波が来ていた。冬至を過ぎたばかりの今日は5時を回るともう暗くなってしまう。あたりが闇に包まれそうな冬景色の中にひらりと一枚の花びらが舞った。花びらではない、北風に運ばれてきた雪の結晶だった。雪はガラス窓に暫くその姿を写した後、すっと消えてなくなってしまった。優太が涙で晴れた瞼を閉じて手でぬぐいながらその結晶の消えてしまった場所に息を吹きかけるとガラスは一瞬真っ白に変わった。そして真ん中から徐々に透明に戻っていく。その真ん中の小さな点にみたことのある優しい目がこちらを見て笑っている。遠くから商店街の年末恒例のクリスマスの歌が聴こえてきた。
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