月の光
その女の子は不思議な魅力を持っていた。万人からすれば決して美人の類ではない。しかし何故か男性を引きつける不思議な魅力を持っていた。コケティッシュという言葉がある。彼女の場合はその容姿や表情は決してコケティッシュと言うわけではない。どちらかというと都会的とは正反対の牧歌的で素朴な穏やかなものだった。ところが彼女が話し始めると人々は彼女の魅力に取りつかれていく。まるで魔法でも掛けられたように彼女の言葉とそれを裏付けるしぐさに陶酔するのである。
そんな彼女と初めて出会ったのは彼が大学3年の時だった。彼の親友から紹介されたのだ。当時の彼にはすでに恋人として付き合っている3歳下の彼女がいた。友人と彼女の会話や一連の動作はどうみても恋人たちのそれと同じで、だから彼は二人の関係をあらためて聞きただすこともしなかった。
それから1年が過ぎようとしていた。彼は相変わらず友人や彼女そして何人かの友達を加え、一緒に旅行に出掛けたり、お酒を飲んだりしていた。
ある夏の終わりに伊豆のペンションに6.7人で出掛けた。海水浴には遅すぎたが夏の名残を楽しむかのように1泊2日で出掛けた。そのとき部屋の窓辺で彼は名前も知らない親友の友人とその彼女がとても親密に楽しそうにおしゃべりをしていたのを見てしまった。話の内容は分からないが、その姿はどうみても恋人同士だ。彼女の微笑み、髪をさわる仕草、そのどれをとっても恋人達のみせるものたった。彼は困惑した。
彼は親友と二人になったときに、親友に向かって「本当に君の恋人なの」と恐る恐る言葉をひとつずつ噛みしめるように尋ねた。すると親友は笑いながら「いや彼女はみんなの恋人なんだ。皆が彼女に恋しているのさ。君だってそうなんじゃないのかい。」「いや君が言いたいことは分かる。僕だって彼女を独占したいと思ったことはある。でも・・・」親友は言葉を繋げなかった。
それから3か月が過ぎようとしていた。彼は歌舞伎町近くの大きな書店を出て駅に向かう途中、道路を挟んだ向こう側に見たことのある女性を見つけた。彼の頭は混乱し、ロジックな答えを見つけようと幾通りの解法が頭の中で逡巡し、そして消えて行った。
いつも観ていた時の彼女はジーパンに白のシャツを着ていて、どちらかというとボーイーシュな服装を好んでいた。ブランド物を身につけていることはなく、胸元のティファニーの小さなペンダント程度だった。その彼女がまるで雑誌の特集ページの様なファッションで歩いている。
当時、ハマトラというファッションが流行っていた。ミニスカートにミハマのローファー、フクゾーのポロシャツ、キタムラのバック、それがお決まりのステレオタイプのファッションだった。誰もが同じ格好で、同じ化粧をする。まるで軍隊のそれのようだ。彼はそんな雑誌をときおり眺めて、そこに写る彼女たちの表情が欠落していることを感じていた。同じものを着ることで封印された個性。同時に全てを同質化することで迷彩される個人であるのだ。そんな恰好を彼女がするとは思ってもいなかった。
彼の頭がまるでCPUの処理速度追いつかなくなったコンピューターのようになりかけていたときに、反対側の彼女は繁華街の方向に歩きだしていた。彼女は彼の存在に気づいていない。
彼は書店の紙袋をブルーのディパックに押し込み彼女の後を追った。
表通りから細い路地を右に曲がり、グレーの古ぼけたタイル張りのビルに彼女は吸い込まれていった。
古ぼけたインジケーターに目をやると、エレベーターは4階で止まった。雑居ビルには看板もポストもなかった。ただ窓が全て外から見えないように完全に遮断されそれぞれの店の名前がけばけばしい原色で書かれていた。
4階には「月の光」と書いてあった。彼はそこがどういう店で彼女が何故あんな格好をしていたのかやっと理解した。
彼はその後東京の郊外に引っ越して、親友とも疎遠になり、一緒に会ってお酒を飲んだり、旅行に出掛けたあの人達の事も忘れかけていた。いや、忘れかけていたというよりそもそもほとんどの人の名前を知らなかった。
彼は大学を卒業し、中堅の商社に勤めてた。偶然、取引先のひとりの社員と名刺交換をした際に、あの時の一人だった事が分かった。相手も気付いて、暫くの間昔話に花が咲いた。別れ際、彼は彼女の音信を聞いてみたが、その人によれば、音大を卒業後、しばらく弁護士事務所で事務の仕事をしていたが、とある事件で依頼主の男性の耳を噛み切ってしまい、病院に送られてその後は音信不通だということだった。
彼はあの日の新宿での彼女といつも白いシャツで多くの人に囲まれていた彼女を順番に登場させ、幕間を下した。
それから10年が経過した。
彼が中野駅前にある開発されたばかりの大きなビルの横につくられた街路樹のある歩道を歩いていると、正面からジーパンに白いシャツをきた女性が二人の子供を連れて日陰を探すように歩いてくる。子供達は揃いの長袖のテーシャツに赤い野球帽をかぶっていた。女性は子供たちの笑顔と同じくらい、楽しそうな表情をして軽やかに彼の横を通り過ぎた。
喫茶店からドヒュシーの「月の光」が流れていた。
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