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2013年1月10日木曜日

1981年のゴーストライダー


洋一と優子の関係は微妙に変化していた。洋一は相変わらず帰宅するのは深夜で土日の休日も会社に出社することが多く、二人が合えるのは月に1.2回程度だった。洋一のアイパのツインフィンもここ数カ月埃を被ったままだった。
洋一の会社に優子から電話があった。どうしても今日の昼休みに会いたいと言うのだ。
時計を見ると11時を回っていた。
洋一の会社には面白い慣習があった。もともとカリスマ性の高い経営者なのだから当然と言えば当然なのかもしれないが、全ての事をその経営者の許可を貰わなければならなかった。それを「センムケッサイ」と呼んでいた。多くの人にとってこの「センムケッサイ」は一大事で仕事の大きなウェイトを占める。今日は1時から始められる「センムケッサイ」のための資料作りがあってあと30分では済ませられそうもない。洋一は優子に2時ならなんとかなりそうだと伝えたが、優子はそれならいいと電話を切ってしまった。
その日は珍しく早く仕事が終わり、洋一は東横線から目蒲線に乗り換えて6時半には沼部駅前の中華屋で夕食を取っていた。洋一はビールとレバニラ定食を食べていた。
お世辞にも綺麗とは言えない店だがここのレバニラは美味しい。それに肩肘を張らず落ち着くのだ。洋一は引っ越して来た時から老夫婦が切り盛りするこの店の常連である。
テレビでは巨人対中日を放映していた。洋一はぼんやりとみるとはなしにその画面に顔を向けていたが、同年齢のカップルがドアを開けて入ってきた音で我にかえりあわてて勘定を済ませて表に出た。
駅前から洋一のアパートまで桜並木が続いている。この道を桜坂ということをつい最近知った。まだ洋一はこの枯木のような古木に花が付いたのを見たことが無かったからだ。
洋一のアパートは軽量鉄骨で出来た2階建である。洋一の部屋はその1階にあり間取りは1DKである。6畳の台所に6畳の寝室、浴室は窓の無いユニットバスだった。2階も空いていたが1階と比べると3000円高かった。洋一は賃貸アパートの賃料は安ければ安いほどいいと思っていた。どんな高額な賃料を支払ってもそれは決して自分の物にならないのだから。ただし、学生時代のような訳にはいかなかった。風呂なしのアパートは風呂に入る時間が自ずと決められてしまう。仕方なく風呂付のアパートを探した。
場所もあまり関係なかった。渋谷に近いところから洋一の予算で東横線沿いに順番に探してきたら川を渡ってしまった。そこで一回乗り継ぎをする前提で一番近いところを探したらここ沼部だったのだ。ただし、洋一はひとつ不満な事があった。駅名は沼部なのに住所は田園調布本町である。どこを見回しても田園調布とは程遠い環境なのに田園調布という名前が付いている。隣町の鵜の木には今時珍しいピンク映画館もあった。それに大体名前が沼部や鵜の木である。華やかな田園ではない。湿った川沿いの土地を連想させる。洋一の育った街と大して変わらない川辺の街だった。最初はこの住所が恥ずかしくて仕方なかったが、今ではそのギャップを洋一の方でも話題の一つにしていた。
洋一の部屋にはエアコンは無かった。正確にはエアコンを買えなかった。エアコンを付けようと貯金していたのだが、会社の先輩に誘われた掛けマージャンで一夜にして十数万円の負けをつくってつまったからだ。大学時代から鍛えていたからと洋一は妙な自信があったがあっけなく一夜にしてその自信は崩れた。洋一はそれ以来マージャンをやめた。
夏の暑い夜、洋一のアパートの軒先に猫がやってきた。白と黒ぶちの猫は洋一が煮干しを投げると美味しそうに食べるのでつい部屋の中に入れてしまったことがある。もちろん動物の飼育は禁止されている。猫は暫くして出て行ったが、翌朝ベッドから出ていた足の膝から下が数十か所赤く腫れていた。昨日の猫が蚤を連れてきていたらしい。それ以来、猫に餌をあげることもしなくなった。
洋一が部屋のドアを開けるとベッドの横の電話機が鳴った。パラシュート生地で作られたブリーフケースを床に置いたまま、受話器を取るとその声は麗子だった。









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