上京して最初に借りたのが笹塚の水道道路沿いのアパートだった。アパートは昭和の初めに出来た和洋折衷の建物で鮮やかなコバルトブルーの瓦がその古さとアンバランスだった。
壁はくすんだベージュのモルタル壁で無数のクラックが入っていた。階段はモルタルで盛られていたが水平で無い踏み面は気をつけなければ重力で後ろに首を持って行かれそうなものだった。
アパートの名前は日の出アパートといった。日の出といっても東も西も建物で囲まれ、挙句の果てに南側は一段高くなった水道道路であったから日が射すことはなかった。
部屋の間取りは3畳で、トイレも台所もついていない家賃1万3千円の部屋だった。田舎から持ってきたものは安普請で作ったオレンジ色の食器入れと、誰かからもらった合板の濃い茶色の引きただしタンスだけだった。西側にある窓ガラスは曇りガラスで、ぼんやり映る隣の赤いビル壁がまるで怪獣のようだった。
私はその穴倉のような部屋から毎日、毎日、慣れない都会の砂漠のジャングルに出掛けて行った。あの頃、周りにあるものは全て自分に危害を加える敵だった。どうしてあの頃あんなに心が荒んでいたのか今も分からない。都会に出てきて庄司薫の書いた「赤ずきんちゃん気をつけて」の物語が自分とは別の世界のものであることが分かりかけてきて一層心の荒廃に拍車をかけた。
お金も無く、友達も無く、そして食べるものさえない若者は1日1食の生活を続けていた。若者の命の糧は新宿駅構内の立ち食いのカレーだった。毎日飽きもせず同じメニューを食べ続けた。
若者は出来るだけ大学に長い時間居た。先輩にご馳走になるのはお財布と出来るだけ遅く帰りたいと言う若者の欲求を同時に満たすものだった。
それでも早く帰ることがある。西陽の照り返す共同の台所からトントントンという大根を切っているような平穏な音が聞こえる。
アパートの住民の多くは高齢者だった。それも独身の高齢者がほとんどだった。彼らの境遇や人生がどのようなものであったか、若者は知らなかったし、知ろうとも思わなかった。ただ、こにいる事が若者には苦痛だった。若者はその音がすると踵を返して隣の食堂に行った。その時間ならばアパートの横で夫婦でやっている定食屋が開いていたからだ。確かこちらも日の出食堂といったと思う。残念ながら記憶があいまいである。
体格も笑い顔もふくよかな女将さんと御主人で細々と営業をしていた。店のメニューは定食屋のそれらしく、鯖の味噌煮定食、とんかつ定食、焼き魚定食、などだった。その中で一番安い定食が納豆定食で次がハムエッグ定食だった。血気盛んな若者は納豆だけでは物足りないので、2番目に安いハムエッグ定食を頼んだ。ハムは透けて見えるほど薄いスーパーで売っている安いハムが2枚付いていた。目玉焼きはこんがりと焼き色がついていて、必ず半熟で供された。当時はキャベツは安かったので山盛りに盛られていた。女将さんが機嫌かよく、他に客がいない時には色々なものを供してくれた。ひじきの煮ものであったり、煮豆であったりした。ハムエッグは美味しかったのだが、若者はそうされることが段々苦痛になってきた。自分が何もできず、人にしてもらっているという重圧がいつしか足を遠のかせていった。
アパートも食堂もとっくの昔の無くなってしまった。ただ、私の部屋だけ松田優作主演の探偵物語で使われたのでDVDに残っていた。先日、30年以上たってこのDVDを観て、オレンジ色の食器入れもメラミンのタンスもしっかり映っていた。ただもカーテンの色だけが変えられていたが・・・
今でもハムエッグを食べるとほろ苦いあの時を思い出す。
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