大井玄氏の著作にも登場しますが仏教用語のこの「一水四見」とは水は人間にとって飲むもの、魚には棲家、天人には宝石の床、地獄の餓鬼にとっては燃える血膿という意味です。
つまり自らが認識する水こそが真実なのだと信じるわけです。
一方、南太平洋のある地域には「怒り」の感情が存在しないともいいます。感情表現はそれぞれの文化において受容され継承されてきたスクリプトを演じるのであって文化を超えた普遍性は存在しないとも書かれています。エクスキュルの言葉「ただ主観的事実のみ存在し、そして環境世界のみが主観的事実である」と。
我々は情報伝達としての言葉を多用しすぎているのではと思いました。そこには自らが作り上げた仮構を正当化するべく無意識の作用が存在します。ゲラダヒヒのように情動による言葉ではないのです。
もう直らない病気を宣告されたとき「ポッカリ心に穴があいた」気持ちは、自分以外の近しい配偶者や子供のときとはまた違う感覚です。それこそ仮構の自己に対する基礎がポッカリなくなったのです。
仏教の「唯識」にあるアーラヤ識とマナ識もこれに従います。
深いイイ話です。
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