今日の内田先生のブログに良い言葉使われていた。
ー一部抜粋ー
その「原っぱ」は、その言葉が連想させるような手触りの優しいものではなく、ガラスの破片や焼け焦げたセメントの土台や陥没したタイル張りの地下室を雑草が無遠慮に覆っているだけの場所だった。・・・・・・・
数年前ある大学の都市計画セミナーの席で、とあるゼネコンの都市計画立案者が、自然融和が図られるような芝生の広場について私に意見を求めてきたので、私は「芝生の広場なんてやめて、土管やタイヤの転がっているような原っぱを作ったらいかがか」と提案してみた。
もちろん担当者は目を丸くしてとんでもないという風だったのであるが・・・・・
私が言いたかったのは、「芝生」に代表されるような管理された広場と、空き地、原っぱは根本的に違う。まあ都心では空き地というのも中々お目にはかかれないしろものではこあるが・・・・
先生の言うように、どこかざらざらした、廃墟のむなしさと危険を併せ持つ空間というのが無くなってしまっているからだ。
そういったところで遊んでいた子供達は足に釘がささっても、土管が崩れ落ち怪我をしても、自己責任だった。その自己責任こそ現代に不足している経験なのだと思っている。
化学反応でカレー粉のようになった得体の知れない物質をつぶしてはカレー粉だと言って遊んでいたあの物質はなんだったんだろう。
若者が、などいいうつもりはない、そうやって子供を教育しているのは大人、だから大人の責任なのだ・・・・・・・・・・・
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