西武系企業に勤務していた私は2度ほど、当時は各社に割り当てられていた鎌倉霊園の墓守にいったことがあります。
そこですることといったら定刻に鐘を打つことと、そこにおいてある西武の歴史のような書物を読むことでした。
東急の祖、五島慶太と堤康次郎が伊豆や箱根で覇権を争ったことや、次々に買収する五島を評して強盗慶太と呼ばれたことなどそのときにアウトラインが描かれました。
今、冷静にこの2つのコンツェルンを見ると、どちらも創業者とのつながりは薄れています。しかしブランドイメージとしての東高西低の感は歪めません。
どうして、このようになったのでしょう。
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西武線沿線には光が丘団地があります。あのマンモス団地です。ここでは当時、左派の知識人達が先鋒として住民運動を主導していました。ポリオのワクチン問題、鉄道運賃の値上げなどを通して大規模な反対運動になっていったのです。
当時の住人は、秋山駿、不破哲三、矢田部理などの名前が見られました。また実際の知り合いの共産党系の弁護士さんもここに住んでいました。
このような社会主義に対する沿線住民の運動は東急沿線も含めて他の路線では見られない現象でした。
思想というのはその影響が強ければ強いほど、思想の吹き荒れた後には荒涼なる大地と化します。社会主義崩壊後の東ドイツや東欧諸国を見てください。私にはこれに似た風景を荒廃した多くの団地で感じるのです。
映画「グッバイレーニン」で取り壊される像のようです。
戦後なりもの入りで建てられたニュータウンの多くに東京の知識人が移り住み、今や崩壊の手前です。
思想と言うものの怖さとそこに暮らす人々の繋がりがどう関連しているのか分かりませんが、私には因果律があるような気がします。
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