偶然、付けたTVで三浦展氏が消費社会研究家としてコメントしていた。消費社会研究家って何??
テーマは「シェア」。
彼とは同期で入社し、初めてのOJTのとき怖い役員から昼食をご馳走になった際に、彼が蕎麦のアナフィラキシーショックで椅子から転げ落ちた時の印象が強く残っている。何故辞退しなかったのか不思議である・・・
そんな彼は同社のマーケティング紙アクロスの編集長を経て、現在にいたっている。
「下流社会」は売上を伸ばし、その言葉は流行語にまでなった。
講演や取材依頼も増えているという。
彼のマーケティング手法はまさに当時のPのトップのそのものである。ティピカルな事象を取り上げ、その理由づけをおこなう。定点観測のあのままである。
批判しているのではない、彼の書の中には大変共感できる部分もある。しかし、近年興味を持ち始めたという建築や都市関係を述べたものには、合理性批判に基づくノスタルジーや、権威的なものへのルサンチマンな姿が垣間見れてしまう。
隈研吾氏との対談集「三低主義」はあさはかにも彼の誘いにのった建築家の汚点であろう。
閑話休題
番組では「シェア」を誰かと共感したいという欲求の表われとして捉えていた。しかし、それは論理飛躍だ。震災やどうしようもない生活の場面において、他人に救いを求めるのは根源的活動だ。何も今始まった訳ではない。
若者が「シェア」を利用するのはそのものの価値が変わってしまったからだ。自動車はいつの時代も自動車ではあるのだけれど、そのもも価値が変わってしまった。月に1.2回しか車を使わない夫婦ならば所有する必要性などない。そもそもの我々とは価値が違うのだ。
つまり価値の薄まってしまった物やサービスを独占する必要性などない、それがシェアである。
0 件のコメント:
コメントを投稿