ヨシヒコは高校に入学していた。ヨシヒコはバスケット部でもキャプテンで、成績もそこそこだったので市内の進学校の入試をパス出来た。もっとも、生徒会の副会長も務めた内申書の点もかなり後押ししたことは事実だ。
高校1年の夏休み、ヨシヒコは友達数人と自分の学力がどのくらいのものなのかと、2週間の夏期講習のために上京していた。
裕福な家庭の子供達はウィークリーマンションやホテルをとってその予備校に通ったが、ヨシヒコや友人にはその余裕はなかった。幸い、ヨシヒコの叔父が杉並で建設業を営んでいたので友人とともに2週間そのもとにころがり込むことにした。
友人はヨシヒコと同じ母子家庭のミチヒコだった。当時のヨシヒコの通う高校は県内でも三指に入る進学校であったが、これといった産業のない地方都市の例外にもれず街は衰退し、それとともに学校も長い下り坂を落ちる手前だった。
五日市街道に面した叔父の家はちょうど方南町と南阿佐が谷の中間にあり、徒歩で駅に行くには20分近く歩かねばならなかった。ただ叔父の家の斜め向かいに関東バスの停留所があり、そこから中野駅にバスは向かう。
予備校はお茶の水だったので、中野駅からは中央線で1本だ。これがヨシヒコの通学ルートになった。
ヨシヒコは名作といわれる文庫本の20冊をすでにお茶ノ水の三省堂で買ってある。ヨシヒコは高校になって現代国語の成績を伸ばしたいと思っていた。担任のまだ若い赴任したての先生がヨシヒコの目指す大学の出身であったこともあったが、その先生の言った「現国の出来ないやつは、絶対受からない」という言葉が呪文のようにヨシヒコに乗り移っていたからだ。
関東バスは細いまがりくねった道を猛スピードで抜けて行く。家々から飛びだした木々の枝をかすりながらアクセルは吹かしたまま中野駅までヨシヒコを運んで行く。
「暗夜行路」「人間失格」「小説神髄」「赤と黒」「戦争と平和」・・・最初の頃は、2日で一冊も厳しかったものの、慣れとは恐ろしいもの、揺れるバスの車内でも本を読めるようになり、多い時は行き帰りで2冊仕上げていた。
叔父の家にはいつも5.6人の職人が出入りしていた。どの人も日焼けし、屈強そうな身体つきをしていたが、ヨシヒコには叔父が一番強そうに思えた。叔父は職人にテキパキと指示を出し、数人が別々の車に同乗して現場に向かって行った。
ヨシヒコが予備校に向かうのはその後。
中央線は総武線と並行して走っている。オレンジと黄色の違いなのに行き先が異なる。ヨシヒコは時々、総武線に乗ってみた。オレンジの時は、一切余裕のないような切羽詰まった人達ばかりだったのに、黄色は違う、ぼんやり外を見ていたり、本を読んだりする人もいた。
ヨシヒコの通う予備校はS予備校だ。予備校に入るにも試験があった。ここの午前部に入ると言うことは一応、現役合格で一流校を狙うというお互いの了解があった。
ヨシヒコの住む北関東の市から東京に行くには東武線に乗って浅草に出る。そしてヨシヒコの場合は銀座線に乗り換え渋谷に行き、さらに私鉄に乗り換える。
東武線は大きなカーブを描きながら浅草駅に滑り込む。滑り込むというよりは、キィーキイーという悲鳴のようなレールの音を鳴らしながら無理やり押し込んでいくような感じだ。
カネボウが鐘が淵紡績の略だと知ったのは小学5年生のときだった。
当時の銀座線は駅に着く直前、車内の電灯が一瞬消える。寝息を立てて眠っていた背広姿のサラリーマンも催眠術から解けたようにパッとして立ち上がり目的の駅で降りて行った。
ヨシヒコは浅草から渋谷まで全ての駅名を暗記していた。子供のころのヨシヒコは目に入るものを全て暗記していた。駅名、住所、電話番号目に入るものは何でも記憶していたが、この頃はこの能力がどんどん薄れていくことを自覚していた。
渋谷に着く前にあたりが急に明るくなり、左手に銀色の丸い球が見える。電車が一瞬、地上に出るのだ。ヨシヒコはその銀色の球であるプラネタリウムには行ったことがなかったし、おそらく一生行かないだろうと思っていた。
お茶ノ水は学生街だった。ヨシヒコの子供の頃「学生街の喫茶店」という歌が流行った。ヨシヒコはお茶ノ水駅近くの画翠檸檬に併設された喫茶店こそ、この歌の喫茶店だと勝手に思っていた。
ヨシヒコ達は叔父の家に居候していた。朝食と夕食は叔母が作ってくれる。その代わりといっては何だが忙しくない時には叔父の手伝いをするのが決めごとだった。
叔父は13キロ以上ある重量ブロックを片手で2本持ち、荷台に次々と積んでいく。よしひこは一つ持つのも苦労しながら手伝った。ひ弱な予備校生は二人足しても職人の一人にも及ばなかった。
ヨシヒコはあるとき授業を欠席した。どうしても手伝ってほしいという叔父の頼みで1時限だけ欠席した。ヨシヒコは友人に授業のノートを頼んでいた。
翌日、授業に行ってみると突然答案用紙が配られた。ヨシヒコはミチヒコから試験のことは全く聞いてなかった。ミチヒコはヨシヒコと全く目を合わせず、せっせと鉛筆をカリガリいわせ答案用紙を進めていた。それに比べ試験範囲の復習をしていないヨシヒコはお手上げだった。
試験が終わり、ヨシヒコはミチヒコに何故、試験のことは教えなかったのか詰問した。
するとミチヒコは友達だって、結局自分の敵になるのだから崖から落ちるところを助けたりしないし、欠席したのはお前が悪いから。俺のせいにしないでくれという冷ややかな言葉が返ってきた。
予備校の校舎を出ると夕立が降っていた。ヨシヒコは傘もささずそのままお茶ノ水駅に向かった。
ヨシヒコとミチヒコはその後数日間一緒に生活したが、二人の気まずい生活は続き、その後ヨシヒコはミチヒコと口を交わすことは二度となかった。
ヨシヒコはその夏期講習で如何に自分の成績が悪いのか、そして何より自分がお人好しで馬鹿だったのか思い知らされた。
ヨシヒコ16歳の夏だった。
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