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2014年1月31日金曜日

視座の転換


 以前にも視座の転換が重要だと言ったことがある。私の仕事、コンサルテーションとは言わば聞き役である。間違っても自分の意見を押し付けてはいけない。聞いて、聞いて、そして聞いて相手が満足した所で暗喩のように相手の考え方や行動が間違っていると感じたら視座の転換を図ることを勧める。それでも多くの人は視座の転換をすることは出来ない。
ある人の言葉を思い出す。事業を失敗した人に次はない。あったとしても同じように失敗する。確かに多くの人は自分の再起を図るとき、一定の愚行については理解はしているが全てではない。特に視座の転換が出来なかった自己に気づき修正できる人はまずいない。これは自戒を込めいつも心にしている。

これは視座の転換が出来た稀有な例である。

 首都圏の地方都市で小さな進学塾を経営していたその男は、生徒の母親に向かって、少子高齢化と景気のあおりを受け、大手の会社も含め教育関係のところはどこも厳しい経営が迫られているとマスコミ評論調の愚痴をこぼしていた。するとその母親は自分の周りにも働きたくても働けず、働けたら子供を塾に通わせたいと言っている人が多いという。その母親は看護士をしていたが、両親と同居で子供の面倒は祖父母が見ていた。病院の勤務は夜勤も含めて24時間制で子供が預けられなければ子育てと仕事の両立は難しいらしい。その話を聞いた男は保育園の実体を調べ始めた。すると母親が言っていたとおり、潜在的な勤労意欲のある母親がいても、保育園がなく働くことの出来ない母親が多いこと。そして、病院側も慢性的人手不足に悩まされていることだった。

その男は次に現状の保育園についての問題を抽出してみた。一番は保育士の確保である。保育士は過酷な労働に比して賃金が安い。そして社会的地位も低い。では労働条件を改善し、ステータス性をもたせるにはどうしたら良いか考えた。
まず、保育園を開園する場合の土地や建物の建設コストが経営に大きくのしかかる。それを克服するのはオフバランスの経営である。土地、建物を相手に提供させ、オペレーションに徹することだった。

もう一つはその保育園をオープンなものにするのではなく、ある特定の利用者に限る経営手法だった。その意味では有名な大学病院を保育所にすることは好都合であった。こうして経営方針を固めているうちに規制緩和の追い風が吹いてあちこちから保育所運営の話が舞い込み、急成長したということである。

もちろん地域に根ざしオープンな経営で質の高い保育を実践しているところもあるのでどちらがどうという話ではない。

色々な経営者が業界や景気の話をする。景気が悪ければ業績は悪化し、良くなれば回復するものだろうか。そんな事はない。考えてみてほしい、白黒の丸が並んだ大きな紙面を見て遠くからグレーだという人がいたとしても、実際にひとつ一つは白と黒なのだからつまり景気もその企業によって違うのが当たり前だ。

ある経営者は景気の話をしない。それよりもどんな時に聞いても「ぼちぼちでんな」としか言わない。その経営者は中々のものである。絶えず感度の良いアンテナを張り巡らし、視座の転換を図っている。そうそう、りんご箱だけがどうして真鍮の大きなホッチキスで止めなければならないのか、その事に疑問を持った彼は独自の梱包箱を開発してしまったそうだ。視座の転換を図るにはまず些細な事に耳を傾けることではないか。




2014年1月30日木曜日

夢とうつつ

私はよく夢を見る。一時期、2年程見た夢を記録しておいたことがある。自分の行動の中で夢の要素はある程度理解できるが、中には遠い昔の事で記憶にもないような残滓のようなものが夢となって現れることもある。こうした時には驚く。そんな夢を見ると如何に自分が狭量で聖人とはかけ離れた胡散臭い人間なのか再確認させられる
私たちは毎日、自分の意思、意思でないに拘らず様々な選択をしている。もしあのとき自分がこうしていたらと思うとこの今ある現実が現実なのか夢なのか不安になることがある。
人間死ぬときに何を考えるのだろう。十返舎一九は絶世の句としてこんなものを残している「の世をば どりゃおいとまに 線香の煙とともに はい左様なら 」。ここまで軽妙に洒脱にはいかないだろうが、上方の芸人の言っていたように「いい夢みさせてもらいました。ほな、さいなら


2014年1月29日水曜日

魚住む水を選ぶ

オリンピックで金メダルを獲ったフィギュアスケートの女性がテレビのコメンテーターの質問で、当時のことを思い出し、その時自分やまわりの事をとても客観的に見られた、自分に驚いたと言っていた。人間有頂天になると目の前のことしか見られない場合が多い。これはスポーツに限ったことではなくビジネスの世界でも同じだ。

よく趣味を仕事にしている人がいる。多くの場合は結果的に失敗をしている。成功体験というものは厄介なものでそれに縛られると前を見られなくなる。大きな失敗体験も同様だ。戦争でそのような苦い辛い経験をした人が日常生活に戻れない場合は極度にその体験を忌避する傾向が続く。もっとも、その戦争についてもっと多くの情報を得ていた上官や士官はそうならなかったという。彼らは失敗をある程度予測していたのだと思う。それを証拠に戦争から戻ってビジネス社会で頭角を表した人が少なくはない。前者との対比は皮肉なことであるが事実のようだ。結局、それはその時に自分を客観的に捉えられていたのか否かなのではなかろうか。

失敗している人は総じて客観性が足りない。何故自分がそうなってしまうのか理解できない。そしてその人の周りも同じような感覚の人達が集っている。

先日、フルサービスのガソリンスタンドで従業員がキャップを閉め忘れ走行中にガソリンが吹きこぼれた。妻がスタンドに苦情の電話を入れたが、車を持ってきたら洗車をサービスすると言ったそうだ。それ以来、そのスタンドは使っていない。従業員も悪いが、その上司の感性に疑問を感じる。恐らく同じような失敗は無くならないだろう。

これに似たことが冷凍食品の農薬混入事件でも言える。罪を犯した人間が一番悪いが、売り物の商品をつまみ食いする習慣を何とも思わなかった、いや思ったとしてもその事を共感させられなかった中間管理職も同様に悪い。そういう組織にはそういう人が残るからだ。だから起こるようにして起こった事件でもある。

フレッド・ラルク・ヘルドというベイン&カンパニーの重鎮が一番のロイヤルティはその商品を自分の家族に勧められるか、とうかだと言っていた。恐らく、このつまみ食いをしていた工場では誰一人家族に冷凍食品を勧めようとは思わなかったはずだ。

トップや中間管理職は人がいなくなる心配が先立ち、違う色の人に媚を売ってはならない。結局、そういう人は大きなしっぺ返しで恩を仇で返すのだから。魚住む水を選ぶ例えの通りまずは自分を律し、共感力を高め、安心で安全な集団社会を構築することから始めるべきだと思うのだが。








2014年1月28日火曜日

SURFACEな街

表題の英語は正しくないらしい。SUPERFICIALというのが正解らしいが何となくSURFACEという言葉が私の場合にはあっているのでご容赦戴きたい。

からっ風の上州から上京してはじめに目にしたのが上野ではなく、浅草だった。浅草まで鐘ヶ淵、曳舟、押上と続く。駅を囲む街の姿は田舎と何ら変わらず、人々の生活感が街に充填され、息苦しかった。先に友人の住む玉ノ井には遊郭の跡があり、その建物は銭湯になっていた。人々の生活と歴史が刻まれているそんな街では上京した意味が無かったのかもしれない。少なくとも当時の私には。私は西に、西に住むところを求めた。東京の西側は当時もそして今も新興の住宅地である。人々の生活感はなりを潜め、小綺麗な街並みが絵のように嘘臭く続く。今住んでいる横浜も同じだ。同じような家並みが続き、同じような年収、同じような嗜好性の人達が住んでいるのだろう。

息子がロサンゼルスに留学した時、息子の上司に当たる研究者がロサンゼルスはアメリカでも特異な表面的な街であると卑下していたそうだ。確かにSURFACEという言葉がぴったりくる。
アメリカでの生活の長かった友人が面白いことを言っていた。東海岸の人達はアジア人にも親切に言葉をかけてくるというのだ。一方、ロサンゼルスなど西海岸ではそうでもないという。理由は西海岸に集う人は人種の坩堝宜しく多民族で千差万別のため、隣人と言っても私たちと同じ異邦人ということらしい。だから特別扱いはされないのだ。そこ行くと東海岸はWASPルールが徹底し、その裏返しなのだと。

それが原因か分からないが、私にはSURFACEな街が快適である。歴史や文化が成熟していなくても、私には息苦しさがない。だから私はSURFACEな街が好きなのだ。




2014年1月27日月曜日

重箱の文化

日本ではどこの家庭でも重箱の一つや二つはあるのではないか。ハレの日にこの重箱に美味しい物や大切なものを入れて衆人にお披露目する。その時まで中味は見せない。
会社のスタッフが日本人にはフェイスブックよりラインの方が合っているのではないかと言っていた。確かに日本人は限られた仲間うちで物事を進めようとする傾向がある。それを控えめな日本人の文化性や閉ざされた空間の美意識として賞賛される場合もあるので、よし悪しは付けられない。
街を歩いていて、日本には多くの塀があることに気付かされる。西洋ではあまり見かけない類の塀が狭い土地を縦横無尽に囲んでいる。
日本は土地が狭く、複雑な権利関係によるトラブルを避けるために塀を作るのだとその合理性を主張するむきもあるだろうが、多くは後付のような気がする。
塀を作るべきでないとは言わない。ただこれだけ街の景観に影響を及ぼすものなのにそのデザインや機能性に無頓着すぎるのだ。
セントラルパークにはほとんど塀がない。石積みの土留が周りに設置されている程度で威圧感や人工的無機質な感じは受けない。
公園だから警備や安全面の担保が少ないのではと言われるかもしれないが、その点を考慮してもあまりに日本の塀はデザインや環境は二の次で安価ならなんでもいいと脳天気すぎると思う。
小石川植物園は私の好きな場所だ。広い園内は緑が多くとても安らげる。ところがその塀ときたら、この脳天気で無粋なコンクリートの平板が張り巡らされていて、興ざめしてしまう。
やっと南西側の無粋な塀が変更された。出来るじゃない。きちんとデザインと機能性も考えた塀がやっと構築された。
東京でも緑化規制と同様に建物の外周に設置する塀について、環境デザインを考慮して規制すべきだと言うと、個人の自由を奪う気かとこれまた反論されそうだが、成熟した街にするには必要だと思うのだが如何であろう。



2014年1月24日金曜日

規制緩和の弊害

個人的には規制緩和について原則賛成である。組織の利権を守るために不必要な経費を計上し、挙句の果てには国民にこのツケを払わせる類の規制は百害あって一利なしだと思っているからだ。しかし、そうした規制緩和にも弊害がある。

30年近く前の広告業界には厳しいルールがあった。外資系の広告会社が先鞭した比較広告というものはすでに日本でも広まりつつあったが、広告会社の矜持なのか不明だが、全体で見れば僅かなものだった。それが数年後にはこの手の広告が大手を振ってテレビから流れていた。

それでも国民を遊興に勧める類のパチンコや公営ギャンブルのCMはテレビではご法度だった。ところが、昨今ではそんな時代があったのかとばかりに、昼間からお茶の間に流れている。
プロの競技、例えばゴルフのスポンサーも昔は選別されていた。いくらお金を積んでも公共の電波にのせるには相応しくない協賛はお断りしていたはずなのに昨今ではおかまいなしである。

製薬会社も同罪である。製薬会社の企業イメージの広告や市販薬なら構わない。ところが医師に処方してもらわなければならない薬品もテレビでコマーシャルする。例えばS社はインフルエンザの薬として点滴治療薬を宣伝する。よって、何もわからない高齢者は点滴の治療薬を欲しいと医院に駆け込む。医院ならまだいい、高度医療を旨とする病院にもこの手の患者が押し寄せ、点滴をしろと時間と税金を使わせるのだ。

情報の非対称性が必要な場合もある。それは両者の間に察かに知識と理解力の差があり、全ての情報を流すと混乱してしまう場合だ。それを知っていてあえて流すということなら何かしらの恣意性を感ぜずにはいられない。

儲かれば矜持などいらない。何でもするというのか。規制緩和によって人間としての良心のハードルを下げることはしてはいけない。寝覚めの悪くなる規制緩和はご勘弁を。




2014年1月23日木曜日

足尾から来た男

谷中村を舞台にしたNHKの土曜ドラマが始まった。足尾銅山の鉱毒事件の頃の一人の女性の奇跡と流転を綴った話である。主演は火の魚で主演デビューを果たした頃から注目している尾野真知子である。

私は小学生の頃から谷中村や足尾銅山を見ていた。谷中村のあった場所は遊水地となりあたり一面蘆原で当時の面影はないが、足尾は生々しい。
窯のすぐ右手の山は禿山で、黄土色の山肌に降った雨が幾本の深い皺を作っていた。この辺りの渡良瀬川は見た目には清らかで透明なのに魚が住んでいなかった。水は冷たい。銅山の水が流れない支流の沢に行けば、イワナや山女がいくらでもいたのにこの川には一匹もいなかった。
私の住んでいた街はこの渡良瀬川のずっと下流だったので流域の住民の生活排水が流されていた。近くでは屠殺場から夥しい異臭を放った排水も流されていたから、誰の目にも綺麗だとは映らなかったはずだ。
屠殺場から数キロ上流に赤堀という岩場のある少し深くなった場所があった。遊泳が禁止されていたが夏には子供たちの飛び込みの場となっていたが、毎年必ず誰かしら死者が出ていた。
今は亡くなってしまったが立松和平氏が父に足尾のことを取材に来たことがあった。後に氏が執筆する「毒」の下書きになったのであろう。父が町に提案しても箸にも棒にも掛けてもらえなかった植林運動を氏はその後もずっと続けていた。

こんなきたない川に魚はいた。地元ではハヤと呼ばれるウグイである。梅雨の特異日である一日に限って川岸に赤いお腹を擦りつけ産卵をする。あたりは白濁し、魚はそのまま死んで流される。

子供の時に見た光景は印象深く、その後の人生に大きく影響を与える。今の子供達は貧しさも汚さも生まれた時から目にすることがなかったのだ。要するに足尾から来た男の昭和とは貧しく汚い時代だったのだ。
今は何処へ言ってもナショナルブランドの同じ洋服が買え、ファストフードも食べられる。小奇麗な駅にはバリアフリーのエレベーターも付く。それが悪いとは言っていない。すべて小奇麗で安心したもの定着したのだ。






2014年1月22日水曜日

技術の時代

昨日テレビでビットコインの特集をしていた。この通貨(通貨と呼べるかどうかは別として)を誰がどうして作ったのかは不明のようであるが、経済危機の叫ばれるヨーロッパ、特にキプロスやギリシャで国民が自己防衛の一手段として活用したことが爆発的に広がりを見せるきっかけとなったことは、その後の投機的価格乱高下と比しても皮肉である。
そもそもEUは自由貿易という錦の御旗によって経済格差のある国を同一通貨のユーロとして統合したわけである。つまり国というユニットを解体し、全体を集合体としてユーロ圏全体の経済、通貨を一極で管理し始めた訳である。ところが各国の中央集権的国家体制は一向に変わらぬまま、この並列的制度に飛びついたわけだから歪が生じる。経済力がなければ国家としてデフォルトの危険性が生じ、全体通貨ユーロの信用も揺らぐ。そこで主軸国はこれらの弱小国に圧力を与え、国民の預金封鎖や圧縮を国民に迫った訳である。
そこで窮した国民は国の中央銀行よりビットコインを信用し始めた訳である。発端はそのような欧州の通貨事情と政治力だったのかもしれないが、その後、中国を始め世界中の溢れかえった投資マネーも黙ってはいない。結果、みるみるうちにビットコインの価格が急騰した。
インド、タイ、中国を始めビットコインを禁止している国もあれば、ドイツのように課税目的で容認している国もある。アメリカも警告は鳴らしているが禁止はしていない。もちろん日本ではまだ検討中である。何故なら条文が書けない。

そもそもビットコインは一般の中央銀行の管理する通貨と違って、発行する額面は決まっている。その点が他の貨幣との一番の違いである。つまり貨幣の統制を誰も行えないということである。完全な自由主義経済について議論のわかれるところであろうが、つまりは信用力となる基盤も実体も何もない、仮想の貨幣なわけである。アメリカの言うように完全なる自己リスクは当然といえば当然の話しだ。

今から25年ほど前にこんな本を書いていた人がいる。私が「縦社会の人間力学」の講義を受けていた頃だと思う。初めて読んだのはそのずっと後になるが、今考えても筆者の論点は面白い。
日本、しいては世界全体を簡単に区分けしてしまう簡便なきらいがあるが、そのどちらも大きく分けて宗教の時代、国家(政治)の時代、経済の時代という過程を経ているというのだ。そして、最終的には「技術の時代」になると将来を予測していた。
私はこのビットコインを聞いた時にこの本の事を思い出した。ある一部の優秀なプログラマーが遊びのために作ったものが、インターネットを介して爆発的に広がりを見せる。まさにパンデミックのように。そして国家はこの片鱗さえ分析理解できない。ビットコインがブラックマネーに流れているとしてもその仕組とフローはまるで理解できないから、制裁を与えたくても出来ない。私たちは授業で資本主義と社会主義という、NATO対コメコンというような政治図式を習ったが、もうとっくにこの境界はなくなってしまった。さらに前述したようにヨーロッパは統合され統一通貨を導入した。ドルや円の価値は、人民元に比べて低下している。そして日本は膨大な累積赤字の後ろにデフォルトの背後霊が付いている。
日本もアメリカも今のような脳天気な事を言っていられるのはいつまでだろう。ビットコインに求心したキプロスやギリシャの国民と何ら変わらないのに。





2014年1月20日月曜日

古代エジプト人

ラムゼイ1世の時代のことであった。裕福な家柄の家長と思しき年配の男性が皆に向かって。「昔は良かった、勤勉に働き、ともに苦労をしてきた。ところがどうだろう、今の若者ときたら遊ぶことばかり考えて、ろくに働きもしない」と言って嘆き始めた。
私はいつもこの話を思い出す。
つい、先日もテレビで若者と年長者に分かれて議論をしていた。何かのテーマがあったわけではなく、ただ「若者論」を好きお互い勝手に喋っていた。年長者の中には前述のエジプト人宜しく、自分の経験論を大上段に構えて、自分の若い頃は良かったと懐古的な叙情を示す。もう、一人は若者の心情を理解したかのごとく温和な表情で若者達と融和しようと懸命に努力している。
私はそのどちらもアホくさいと思ってしまう。大体、若者と年配で区分けして論ずること自体、馬鹿げた話であるし、有意義な考えだとは思えない。全てのことを二項対立的状況として演出するマスコミのそれは今に始まった事ではないが、そこから意味のある考えが発芽するとは考えにくい。
そんなことを言いながらも、私も時代論の本を読むことがある。つい、先日もバブルについてのある著者の本を読んだ。著者は大学で社会学の教鞭をとっているとのことだが、どうもこの手の学問には馴染めない。社会学全体がそうとは言わないが、これだけ変数の多い事象を大した考察もせず、こうだと断定するのは危なっかしくて仕方ない。
社会学だけではない。経済学においても人間の感情など今まで変数としては取り入れなかった要素を検討してそれを組み込み経済活動を分析しようとする動きが見られる。行動経済学といわれる分野はその嚆矢であろう。さらに公共性や社会性(帰属性)を視野に入れて考えてみようという動きもある。ここまで来ると一定の法則とは何ぞやと考えてしまうのは私だけであろうか。こうして文系分野のいろいろな学問が心理学的アプローチを思考し続ける間に、当の脳機能について益々複雑性が分かってきたというのは皮肉な話である。
前述の話に戻る。私の若い頃はとは言わないようにしている。私の若い頃は私の若いころであって。今の若い人の若いころも今の若い人の若い頃なのだ。決してこれからの人の若い頃よりこの若い人の若いころが新しくなることはないし、いつまでたってもその繰返しなのだから。
では歴史は繰り返すのか?そんな事はない、例えばもし今年フェレやアルマーニの肩パットの入ったジャケットが流行ったとしても、それは2014年に流行ったものであって。80年代の焼き直しではないのだ。物とはあくまで相対的な役割しか果たせないのだから。









2014年1月18日土曜日

残る建築物

家守の仕事を30年近くしていて、色々な建築物の企画に携わってきた。個人住宅なら施主の思い通りに作れば良いと思う。しかし、収益を得て、事業を行うとなれば別である。
今考えると、予算が十分にあり、思うように設計した建物で今でも輝きを失わないで存在しているものが少ない。もちろん設計士の個人的資質によるところが大きいのだが、つい予算があると過剰な演出までしてしまう。一番、カッコの悪い建物は少し前に流行ったものの流行遅れだ。建築物の賞味期間はファッションと比べれば長い。償却期間が60年とは言うものの、そんなに長い賞味期間を続けられるものではない。せいぜい20年から30年だろう。30年前の建物といえば、新建材が持てはやされた。解体されている赤坂プリンスホテルなどに使われたエオパリエという大理石風のあれである。そして円柱。大小交えて色々な建物でこれでもかと言われるくらい使われていた。今それらを見ると物悲しささえ覚える。
建物はできるだけ薄着が良い。これが私の結論だ。造形や構造は大切だが、うわべは出来る限り薄く、厚着をさせない。タイルや石も出来る限り少なくしたい。鋼板で覆うなんて絶対にしない。そして古くなった姿を想像できるものが良い。
70年代の井の頭線沿線には大きな屋敷が結構あった。浜田山の南側もその一つだった。緑に囲まれた邸宅は緑の絨毯が広がり、青い水面をきらきら輝かせているプールが見える。建物は木々に囲まれてひっそりと佇み、丁寧に手を入れされた外壁のペンキが木の質感を際立たせていた。松の木にはとんびが一羽とまって私たちを睥睨していた。
建物は美術品とは違う。使ってなんぼ、住んでなんぼのものである。使われ経年経過して初めてその真髄を発揮する。それを考えていくことが企画者の矜持でもある。







2014年1月17日金曜日

昭和という時代 「姫野カオルコ 昭和の犬」

昭和という時代はもっと寒かった。現代のようにTシャツにユニクロのフリースを着てさっと出掛けられる訳ではなかった。靴下を二重にして厚手のウールのオーバーを着込んでマフラーに耳あてまでさせられた。だから冬はひどく動きにくかった。
姫のカオルコの「昭和の犬」という小說が直木賞に選ばれた。小說に出てくる主人公は強い。強さをひけらかす事はさして難しいものではない。強さを忍ばせて普通の平穏さを装う強さだ。

私はこの本を読んでいて。小学生の時にクラスにいた女の子を思い出した。その子は特別学級にいたので時折一緒になる程度であったが、軽度の障害のためか会話は得意でなかった。周りからはその事でからかわれたり、馬鹿にされたりしていたが本人はそのようなこと、どこ吹く風と言わんばかりにいつもニコニコしていた。
その女の子は飼育室のうさぎの世話をするのが好きだった。餌のキャベツだけでなく、校庭の裏の畑を耕している小さな菜園の人からもらった大根の葉やあぜ道の繁縷を摘んできてはうさぎに食べさせていた。

あるとき心ない同級生がその子の机の上に袋に入ったあるものを置いた。袋の中身は死んだ兎だった。女の子がいつも世話をしていた白いうさぎだった。赤い目はそのまま見開かれ、兎の小さな手足は固く曲がったままだった。恐らく当時のこと、真冬には赤城おろしの北風で暖房もない飼育室は氷点下になっていたから凍死したのだろう。
女の子はその兎を抱きしめて声を出さずに泣き続けた。ただ、ただ兎に覆いかぶさるようにして下を向いて。兎を持ってきた男の子はバツが悪くなったのか、チェっと言ってその場から居なくなってしまった。

それから半年が経って、その女の子の姿を見かけなくなった。しばらくして、持病の心臓病の悪化でその女の子が死んだことが先生から告げられた。
あれから45年経つ。この小説を読んでその女の子のことを思い出した。






2014年1月15日水曜日

目先の利益と利益誘導

消費税増税前の駆け込み需要が後を絶たないという。悲しいかな我が日本人に染み付いた悪癖のようでもある。エコカー減税にしてもそうだ。エコカーにすると環境にやさしいという謳い文句は本当だろか。確かに人間は人口爆発とともに化石燃料を食い物にしてきた。このままいけばいつかは枯渇するだろう。ジャレド・ダイアモンドはイースター島の文明崩壊と同じように近代文明も崩壊するという。しかし本当だろうか。

今日の朝刊に南極のオゾンホールが過去最小となったと書かれていた。中国での排気ガス、北極海の氷が溶け温暖化が叫ばれているまっただ中、地球は逆の反応を示した。化学はどう説明するのか。

そもそも宇沢弘文氏がずっと前に論じているように、自動車という乗り物は経済的でないのだ。どう考えたって経済的ではないのだ。エコカーなら同じ車と比べて経済的と反論する向きもあろうが、所詮それは横一列の止まった時間軸での話。時間という縦軸を考えれば自動車を一台生産するために生じる環境負荷と車を買い換えた際に生じる環境負荷は同じテーブルで比べられるのだろうか。

エコカー減税というのは国民への利益誘導である。国家にとってその方が、都合が良いから導くのだ。それを目先の利益につられてまんまんと引っ掛かる我が国民性の情けなさ万事休すの感がある。

そんなことを考えて休日、車のハンドルを握っていたら、ウインカーも出さずに右折する車や、横断歩道を渡ろうとしているのにアクセルとブレーキを間違えて急停車する車、同類お持ちの方には申し訳ないがそれら全てエコカーだったと付け加えておこう。





2014年1月14日火曜日

檸檬と無縁坂

私は大して勉強もせず市内唯一の進学高に入学できた事で、自分は他の人より出来ると訳の分からない思い上がりと根拠の無い自信で暫くの間は有頂天になり、妄想と夢の中で暮らしていた。そんな思いあがりと自信は一瞬に音を立てて崩れた。
私はその夏、親に無理を言って駿河台にある予備校の夏期講習に行かせてもらった。幸い叔父が杉並で建設会社を経営しており、私ともう一人の男は叔父の家に無賃で宿泊させてもらった。今考えれば分かることなのだが、幼い子供二人を育てながら、若い職人の世話もしなければならず、地方の若者二人を居候させる余裕などないはずなのに、叔母も叔父も嫌な顔ひとつせず私たちをその夏の間中、預かってくれたのだ。
夏期講習の期間中、試験が何回か行われた。特に酷かったのは数学で目も当てられなかった。隣に座った都内の有名進学校の生徒は私の3倍以上点数をとっていた。
私は早々に理系を諦める事になった。では文系の科目はというと、英語はまあまあだったが、国語が今ひとつだった。当時の私の担任の先生は京大を卒業し高校に赴任してきたばかりの国語の先生だったが、配属早々ラグビー部の顧問も引受、クラスの誰に対しても平らな態度で接してくれ、私はその先生に密かに憧れていた。その先生が、「君たちはどのくらい名作と呼ばれている本を読んだことがあるのだろうか。もし、現国の成績を伸ばしたいなら、とにかく名作と呼ばれるものを片っ端から読んでみるといい。意味なんて解らなくてもいい。覚えていなくてもいい。読んでいたのと読んでいないのとでは雲泥の差になる」というような事を言っていたのを思い出した。普段なら、人が読みなさいとか、読んだほうがいいよというような本はへそを曲げてまず読まない。ところが、その時は羅針盤を失った動揺か、どんな風の吹き回しか本を読んでみようという気になった。
叔父の家を出て、五日市街道のバス停で中野行きのバスに乗る、曲がりくねった道でもつり革につかまり必死に文字に目を追った。結果、ひと夏で四十冊、名作と言われる本を読み終えた。
その最初の本が夏目漱石の「雁」だった。何故その本にしたのかというと、当時、フォークソング全盛の頃で「無縁坂」という曲がヒットしていたからだ。無縁坂が何処にあるのかも知らない田舎の高校生は明治の時代にその無縁坂を舞台にした小說があるということだけで、興味を抱いたのだ。
この小説は2回ほど映画になったようだ。残念ながら二つとも見ていない。最初の映画は高峰秀子さんお玉をやったようだ。2回目は若尾文子さん。いずれも、薄幸なお玉には綺羅びやか過ぎる気がする。
大人になってからの話だが郷土史を研究している人から東京近郊の地形図を見せてもらったことがある。それによると丁度この辺り本郷台地の東端にあたるところで不忍通りに向かって坂が多かった。根津に行けば同様な地形で団子坂もある。こちらは蕎麦通では有名な藪そばの発祥の地でもある。そんな地形ゆえ坂はいくつもある、その一つが無縁坂である。
無縁坂から不忍池を見渡すと今でも雁の姿が見られる。残念ながら目の前には中華料理店の建物工事が進められており数年経つと明治の頃よりのその景色が見られなくなってしまうかもしれない。無縁坂の登り切ったところに鉄門がある。江戸時代の種痘所があった頃からここに門があったようだ。鉄門の由来は、木製の扉に鉄で打ち付け鋲で留めてあったその姿からのようであるが、今はすらんとした涼しい現代風の門に変わっている。
あの夏、御茶ノ水からここまで歩いた記憶がある。無縁坂にはその当時でも小說に出てくるような木造のしもた屋はほとんど見かけなかった。当時、坂沿いに数件のマンションが建設中だった。お玉が窓越しから岡田を見ていたあの情景は見られるはずもなかったが、それ以上にここに行こうと誘った男から、行っても意味が無いと言われたことに心が折れた。もちろん、私は東大を受験する気も能力も無かったが、その男の夢のない考えにショックを受けていたのだろう。帰り道で立ち寄った御茶ノ水の画翆「檸檬」のアイスコーヒーの苦かったことを覚えている。その「無縁坂」に四十年後に息子が住むことになるとは。人生というものは本当に面白い。










2014年1月9日木曜日

犁牛のたとえ

年令に関係なく物事に対するバイアスが強い人がいる。よほどひどい仕打ちを受けたのか、はたまたトラウマとなってそうするのか分からないがこうした人はすぐに人にタグを付けたがる。

書店でも「人はみかけが九割」という表題の本が並べられる。確かに人の身なりで大体の想像はつく。しかし、あくまで大体である。現代のネットワーク社会、簡単に情報が取り出せる反面、情報の吟味をしないとその情報に踊らされる。

中国の諺に「犁牛の子」という話がある。犁牛とはまだら牛のことで、祭事には立派な角を持つ赤牛が重用されるが、この犁牛は敬遠される。同じように出生や過去のことでその人の価値をきめてしまう場合があり、それを戒めるべきだとするものだ。

しかし、分かっていても実際には人はすぐにタグを付けたがる。そうすることで自分と自分以外の者の境界線を明確にして自己防衛するためだろう。

そうした人には情報が寄せられない。情報とはいわば人である。幸も不幸もネットワークが持ってくるのではない、人が持ってくるのだ。

私は人と会っている時に電話の取り次ぎをさせない。電話には出ない。中座をしないと決めている。わざわざ時間を作って会いに来てくれる人が一番大切だからだ。

それに会って話をするということはその人を理解するのに役立つ。文章では人の書いたものを流用されたらそれまでだが、リアルな世界では通用しない。

それからゆっくり虚静恬淡に判断すればいい。






2014年1月7日火曜日

SCORPION BAY 謹賀新年

SCORPION BAY 謹賀新年

明けましておめでとうございます。本年も昨年同様宜しくお願い申し上げます。

さて私の正月はといえば娘夫婦が年末から帰省し、また一族郎党にスタッフ家族も加わる恒例の新年会もありあっと言う間に松の内でした。そんななか、嬉しい事に万緑叢中紅一点、KさんがLAに帰る僅かな時間を縫って立ち寄ってくれました。戴いたオーストラリアの雑誌にはKさんの写真とともにその軽やかなステップをFANCY FOOTWORKと説明が添えられていました。同封戴いたフラッシュメモリーにも2013年のサーフシーンが撮りためられており、マリブはもとよりスコーピオンベイでのショット、さらにKさんを始めALEX KNOSTJARED MELLといった注目のサーファーも写っていました。

私も腕は別としてショルダーの張ったメローな波をクルージング出来るよう腰と風邪を直してKEEP SURFINといきたいものです。