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2012年11月1日木曜日

ブラウンとシュリンプ




英語で海老の事をprawnとshrimpと言います。もっと大きいのはlobsterと言いますが日本で言うロブスターは実は海老じゃなくザリガニの仲間なんですが、向うでは伊勢エビもロブスターになります。

オアフ島の北部カフクでは海老の養殖がさかんで、カフフクシュリンプなる海老の屋台が街道のあちこちに見られます。この場合はシュリンプですね。

ここまで来ると何となく大きいのがブラウンで小さいのがシュリンプと思ってしまうのですが、以前ヒースロー空港で生牡蠣と一緒に食べた海老はブラウンでした。ブラウンカクテルとしてメニューに載っていたそれはとても小さな海老でしたから、英国では小さい海老もブラウンと呼ぶようです。

漢字でもエビは海老、蝦、鰕、蛯などと書きますが、アメリカのシュリンプに当たる場合は蝦を使うことが多いようです。もっとももっと大きいものは海老を使うようです。

娘が生まれたお祝いに戴いた大きな海老は五色海老という南洋で捕れるものです。築地で生きているもの2匹購入して、風呂桶に入れていた事を思い出しました。

伊豆に潜りに行った時にめずらしいうちわ海老を捕まえた事があります。沖縄ではこの仲間にセミ海老というのがいて大変貴重なようです。もっともうちわ海老にはうちわ海老もどき(人間もどき・・・古いなー・・)というとても似ている海老がいて、目の付いているところが違うようです。

その海老はどうしたって??もちろんゼミ仲間で食べました・・・笑

人間の海老もいるようですね、その海老はあれから大人しくなったでしょうかね、相当危ない海老のようですから???

1981年のゴーストライダー Ⅲ



洋一は市ヶ谷の駅を降りて外堀通りに面した黒い建物を見上げていた。

学園祭の最終日に竹内マリアの曲がどこからともなく流れて来た時に、洋一はこれで本当に大学生活が終わるのだなぁと所在なくぼんやり考えていた。

大学は社会に出る前のモラトリアムだと言う人かいる。洋一は確かにそうだったが、同じ高校を出て医学系に進んだ友人には学生生活は勉強漬けの日々であったし、モラトリアムなどという言葉を使うことは出来なかった。

洋一は濃紺のスーツに白いカッターシャツ、ブルーのストライプのネクタイをしていた。唯一、洋一が拘ったのが靴である。普通なら黒のプレートゥが一般的であるが、洋一は少し紫がかった使い古した、いやいや、いっちょうらいのオールデンを履いていた。

洋一は今まで商社に的を絞り面接を受けてきたが、とある商社の面接でその考えが変わった。

その商社は集合するなり、学校別に部屋を区切り、面接を行っていた。その程度の事は差こそあれどこでも見受けられたが、ここの分類はとても変わっていた。

第一室東京大学様、第二室その他の国立大学様、第三室私立大学理系様、第四室私立大学文系様・・・・ここまで分かりやすい会社は初めてだった。

洋一は卒業して友人と会社を興そうと思っていた。洋一が企画したツアーやイベントはことごとく成功し、それまで一生懸命バイトをしても中々たまらなかったお金が一瞬にして稼ぐことが出来た。

洋一が就職活動をすることになったきっかけは友人の死である。仲の良かったその友人はM大学の商学部に在籍し、洋一よりひとつ下だった。洋一が初めて買ったサーフボードもその友人に譲り、洋一は念願のアイパのツインフィンを今は手に入れていた。

その友人の死は突然やってきた。飛行機事故だった。彼の葬儀はとても冷たい雨の中で行われた。

その時の彼の両親の悲痛な顔を洋一は忘れなかった。年老いた両親を残して先に逝ってしまったことは何にも代えがたい苦しみであり、両親は息子が卒業して会社には行って初めて給料をもらってくるのが夢だったと泣きながら話していたことが、洋一の頭の中でこだましていた。

もうひとつ洋一を就職に向かわせたのは先生の一言だった。

独立するのは良いと思うが、一度、社会に出てからでも遅くないんじゃないだろうか、今立ってる場所とはまた違う場所で見まわした時に新しい発見があるし、それまで培った経験や人脈は想像以上に大きいというものだった。

確かに洋一もその理屈には納得していた。

洋一は面接を受けていた。面接の内容はごく一般的なもので、洋一が期待していた音楽の話はひとつもなかった。面接官の服装も音楽業界の人とは思えないような保守的なもので洋一の靴だけが浮いていた。

その会社は洋一の好きなビートルズなど洋楽の分野では日本を代表するものであったが、建物を出る頃にはこの会社の20年後が心配になった。もちろん合否などどうでもよくなっていた。

洋一は優子と待ち合わせはている赤坂見付駅まで少し遠いと思ったが、外堀通りの建物のガラスに西陽が映り込み秋の気配のました街並みを見ながらもう歩きはじめていた。


2012年10月31日水曜日

1981年のゴーストライダー Ⅱ



洋一は原宿にあるライブハウスの前の歩道に立っていた。

歩道に取り付けられたカードレールに足を掛けて持ってきたシェラデザインのディパックの中をもぞもぞと探し物をしていた。

ディパックの中には少しくたびれたグレーのフーデットパーカーとJAZZ LIFEという音楽専門の雑誌が詰め込まれていたので、洋一はそれらを一度取り出して丹念にバックの底を探した。

しかし、探し物は見つからなかった。


落胆しかけた洋一の前に少しヒールの高いウエッジにのパンツ、そして白のブラウスを着た健康的に日焼けしたひとりの女性が現れた。

女性は「今、荷物を取りだした時に一緒にこのチケットが落ちたと思うんだけど、これ違う?」とぶっきらぼうだけどどこか悪戯っぽい口調で洋一に話しかけてきた。

そのチケットは洋一がバイトで貯めたお金でやっと買った今日のライブのチケットだった。

洋一はチケットを受け取り、その女性にお礼を言い頭を軽く下げたと思った瞬間、もうその女性はその場から姿を消していた。

洋一はライブハウスへ向かう小道でチケットの表に印刷された真っ赤な球体の絵を丹念に見ていた。

今日のライブに出演するバンド名を直訳すればお天気予報だ。何となく人を食ったようなこのバンドの音楽はジャズのグループ感に今風のエレクトリックな味付けをしたものだった。

洋一はその中でもベーシストが特に好きだった。

ライブが始まると、観客は総立ちになり、彼らの音楽に熱狂した。アンコールの曲も終わり、灯りが付けられライブの終わりを告げた。

洋一は出口に向かおうとゆっくりデイパックを担ぎ直すと、すぐ横に先程の女性が背の高い男性と一緒に立っていることに気づいた。

洋一は彼女に再度お礼を言い軽く会釈して、足早に出口に向かおうとしたが、彼女の方が洋一のパーカー傍を持って「待って」と言った。

一緒にいた男性は彼女に洗面所に出掛けてくるといい、その場を離れた。

洋一は彼女に「ライブに彼と来ていたんだね」と少しばつが悪そうに話しかけた。

彼女は「彼氏じゃないよ、友逹、そう友達の一人」

彼女のその言い方からは簡単には信じられないけれど、まあそんな事はどうでもいいかと思い直し、彼女の指先に目をやった。

日焼けした彼女の腕の先に白く日焼け後の残った指輪の跡がくっきりと目に入った。

彼女は黒いバッグから小さな紙切れを出して、「今度、このライブに行くの、もし良かったら行かない?何となく音楽の趣味似ていそうだから・・・実は今日の人はあんまり好きじゃないみたい、無理してきた感じなの、彼はもっと黒人のソウルフルな音楽が好き見たい・・」

洋一はそのチケットを受け取ると、彼女にそのチケット代のことを訪ねた。

彼女は笑って「これもらいものだからタダなの、大丈夫」と言ってもう一度クスッと笑った。

彼女は洗面所から出てきた男性と洋一の方に手を振りながらライブ会場を後にした。



1981年のゴーストライダー



一人になった洋一は車の中でカーラジオのボリュームを大きくして、流れてくるシーナイーストンのモダンガールに指先のリズムをあわせて、ハンドルをコツコツと叩いていた。

フロントガラスには雨粒が集まり、車の先にあるコンビニの電球が滲んでいった。

曲が変わり、ジョン&ヨーコの「ダブルファンタジー」が流れ始めたので、洋一はラジオを切ってしまった。別にジョンレノンやオノヨーコが嫌いと言う訳ではなかったが、このアルバムのジャケットに使われた二人の写真は好きにはなれなかった。

洋一にとってビートルズやジョンは大人の世界に対する反抗の証でもあった。親や年配者にはよくビートルズのような長髪にするんじゃないと窘められた。そのたびに洋一は表向きは理解したようなことを言いながら、部屋ではヘットフォンをしてヘルタースケルターやゲットバックを大音量で聞いていたのだ。

洋一は一人っ子だった。まわりは兄弟や姉妹のいる家庭がほとんどで、何故かしら洋一は一人っ子であることにある種の罪悪感を感じていた。自分は生まれてくるんじゃなかったという後ろめたさや自責の気持は洋一の心に冷たいキレットの先のようなものを植え付けた。

小袋を紫色のカーディガンの中に隠すように小走りで優子は車に戻ってきた。

車のドアを開け助手席に滑り込んできた優子は自分の濡れた髪と肩を手で払って、袋の中からまだ湯気の出ている小さな白いものを取り出して、半分を洋一に渡した。

優子は半分のそれを食べながらぼんやり外を見ていた。

洋一は自分のそれが「好きな方じゃない」ことを知っていたが、何も言わずに缶コーヒーでそれを流し込んだ。

優子はぽつりと「明日も雨かな・・・・」と独り言のようにつぶやいたが洋一は何も言わなかった。

小さな車はコンビニの駐車場を出て、方向を180度変え西へ向かった。

まだ真っ暗な闇の世界に高速道路の路面に映し出された電燈が影絵のように笑っている。

やがて車は高速道路を降りて、海岸線と並行に走り始めた。

目印の警察署で左折し、まっすぐ伸びる海岸線と垂直な道に出る頃には雨は止んで、洋一と同じような青緑色したサーフラックにボードを積んだサーファーが集まっていた。

東の空が漆黒から群青にそして紫から茜色に変わる。

洋一はシートを倒してその空の色を見ていた。

洋一は優子と出会った3カ月前の事を思い出していた。

2012年10月29日月曜日

西武線の相剋


三浦展氏も紹介していましたが、この本中々です。知り合いに頼まれて数年前にこのエリアに仕事で足を運んだ経験があります。

大西武を築いた堤康次郎はご存じのように大の左翼嫌いでした。

この沿線は東急と違って宅地開発にそんなに積極的ではなく、結果、団地が多く生まれました。

私の知り合いの弁護士ももれなくこの団地の一つに住んでおりました。(もちろんこの弁護士先生も**弁護士会所属のバリバリの左翼です)

この先生の例に限らず、某党の書記局長や昭和の思想史に名を連ねる左翼の大物がまるでうずくまる動物のようにこれらの団地を居を構えていたのは偶然でしょうか。

堤氏の思想とはまさに相剋します。

そしてそんな団地が老朽化とともに住民は減少し、高齢化の勢いが止まりません。

思想とは何でしょうか、一時のファッショなのか、それとも永久に続く時代の裏側なのか分かりません。

ただ、消えてしまった訳ではないでしょう。

首相官邸を取り巻いたデモの姿をみて、脱皮し、化体した思想の怪物が覗き見えた気がしたのは私だけでしょうか・・・・

2012年10月25日木曜日

時々立ち止まり  読書

以前にもお話したと思うのだけど、私の特技の一つに速読があります。訓練の賜物と言えばそれまでですが、息子が中学の時には既にそのスピードは抜かれていたので大したことはないのですが、一応普通の人より早く読めます。

そのおかげか読みたいと思う本は常に3.4冊買い置きしてあります。でも面白いと思う本ほど早く読めちゃうから矛盾して、例えばずっと発売を心待ちにした村上春樹氏の1Q84なんか2時間掛らず読み終え、場面の細部までイメージ出来るのに、これがすぐ終わってしまう。

でも全ての本がこの方式かと言うと違うのです。1年に2.3回読み返す本もあります。こうした本はページに気になるところをチェックして再度チェックする読み方をする訳で、経済、経営やマーケティングの本に多く見られます。

一方、こんな短い周期とは別に10年、20年経って読み返す本があります。私のコンドラチェフ周期にあたる本です。

今、読み返しているのは中根千枝著「タテ社会の力学」です。批評家の間では、古臭い理論だとか、右肩上がりの日本にしかあてはまらない、そもそも理論そのものが破たんしているとか、散々の評価ではありますが、私は一向に意に介しません。

私は偶然、この本を取り上げた一般教養の授業を受けていました。本人ではなく御主人の方の。授業の印象は本人の著作でもなく、さりとて他人でも無い人の本を説明するその御主人の微妙な距離感が面白かった事を覚えています。

当時ははっきり言って内容そのものは、「そんなものか」という程度にしか思いませんでした。

しかし、今になって読み返すと、ここ違うんじゃないかな、いや、この見方は面白いと、色々な所に発見があるのです。

数年前から、家族論、ジェンダー論などの本を読み始めました。最近では山極寿一氏の本など動物を対象にした家族論、集団論を読みながら父系社会、母系社会について考察していたので、当時の(30年前)とは大分、基となる知識の量や種類も違うのでしょうがそれにしても、多くの発見があります。

有名な言葉に「我々は我々の知っている事しか知らない」といものがあります。その通り、人知の及ぶところなど物凄く小さいのです。

今日もこうして今にいながら無限の冒険に旅立てるのは幸せじゃないですかとページをめくるのです。

それにしてもイエール出のMichelle Shaprowの歌声は良いなあ!!

2012年10月24日水曜日

整形外科医のひとりごと

家の近くにある掛り付けのM整形外科医院はいつも大繁盛である。老いも若きも老若男女が集まってくる。7.8人以上いるスタッフはそれぞれ分担しながら、しかも緊密に連携を取っている。

そんな塩梅だから患者を大切にしようとする気持が伝わってくる。理学療法と診察とリハビリを上手い具合に回しているのである。

そこへ行くと大学のそれはどうであろう。数時間待って診察は2.3分なんてことはざらである。若い医師はあまり患者を大切にしない。いや私がそう感じているだけかもしれない。

しかし、それはそれで良いのではと思ってしまう。もし街場の開業医が大学病院のようにやろうと思っても出来ない訳で、その逆も大学病院では困るのだ。餅屋は餅屋ということであうか。

人間、歳を取ればカ゜タは出てくる。友人が足裏に痛みを覚えたといって整形外科を受診したら「モートン氏病」と診断されたという。私もやったことがあるが、要するにもう無理はせず体のご意見を聞きながら(尊重しながら)やりなさいということなのだ。

私の場合はロードバイクに乗りすぎて、足裏の負担が増加し神経叢を圧迫して発症したが、自転車を少し乗らなかったら傷みも引いてまた動かせるようになった。

ただ、注意しなければならないのは彼らは骨折や皹が入っているような骨の異常については容易に見つけられるが、筋肉や腱、神経の圧迫,ダメージについては推測しか出来ないのだ。

なんだ駄目じゃないかと思うなかれ、それでいいのだ。これらの骨以外のダメージからの回復は3カ月すればきちんと修復されるのである。途中で無理して動かさなければ、人間の力で治っていくものなのだ。

私の場合は、頸椎も腰椎も椎間板が薄くなって、腰に負担が掛ればすぐ発症してしまう。

そうならないように背筋や腹筋を鍛えようと努力するのだが、その途中で発病したりして思うようにならないものである。まさにジレンマである。

痛みを我慢する必要はないが、多少の痛みは体を無理して動かさないようにしなさいという脳の命令なのです。

そんな事をつらつらと考えていたら、外科研修の息子が帰ってきた。週末は群馬県に行くそうである。あちらのT門会が御招待してくれるそうである。

どんな治療が良いのか、聞いてきておくれといっても息子は笑うばかりであるが・・・・・・・