このブログを検索

2020年10月20日火曜日

チャチャハウスとBARラジオ

  上京して安下宿に住んでお金はなくても時間だけはあった学生時代。安い居酒屋と定食屋、一日、二食で糊口をしのいでいた。

 京王線の笹塚のアパートは4畳半の台所、風呂なし、トイレ共同のとても古いもので階段を上がってすぐ左の部屋は2階だったが、敷地が低く、水道道路ほぼ同じ高さで、大型車両が通ると地震のように揺れた。其れからしばらくして中央沿線に引っ越した。学校に行くには乗り換えも無く便利だったが、相変わらず風呂なしの部屋だった。

今も休日には東京方面には行きたくないので、買い物は家の近くか横浜となる。このころ既にその予兆は始まっているようで、学校のない休日は西の吉祥寺に出掛けた。

 私が好きだった店は全てN氏の店だった。サムタイムは一寸大人で一人でジャスを聴くには良いが、友人とクダラナイ馬鹿話をするにはもう一つのチャチャハウスが最適だった。さりとて軍資金が芳醇なわけではない。一杯のドリンクで随分と長居をしたものだ。さぞ嫌な客だったに違いない。店内はジュークボックスがあり、当時の西海岸の音楽が流れていた。イーグルスの歌を聴きながら、テキーラサンライズを知ったのもこの店だった。まだアメリカを見たこともない時代だった。

 当時の中央線沿線、特に高円寺には小さなジャズバーがいくつもあった。流儀というわけではないが、こちらの店では必ずバーボンを頼んだ。

 月日は流れ、モラトリアムのような学生時代も終わり、社会人になった。当時の職場は渋谷の井の頭通り沿いにあって、目の前には交番と風俗店が折り重なって存在していた。しばらくして、すぐ近くにN氏のアルコホールという店が出来た。ウイスキーを蒸留する赤胴色の巨大なポットがその店の象徴でもあった。

 神宮前にその会社と取引関係のある大きなアパレルメーカーがあった。先輩のお供でその会社の人に近くのBARラジオだに連れて行ったもらった。確か、その会社の某ブランドがこのBARラジオと同じ施工会社で内装ょするというような話の流れだったような気がする。

 若造はその存在感に驚いた。お客も演出と言うけれど私などその演出には加われない。カウンターに座っている人に聞こえないように先輩が「あの人がコピーライターのIさん、イラストレーターのWさん、そして一番角にいるのが小説家のMさんだよ」今は誰もが知りうる有名人ばかりだ。残念ながらWさんは鬼籍に入られたがお二人は今も精力的に仕事をこなされている。この店をやっているのがYさんだというのが分かったのはずっと後年になってことだった。

渋谷にもう一軒好きな店があった。今はなき東急プラザの近くの地下にあった。音楽好きの先輩に連れて行かれたその店はインクスポットといって、店内は真っ暗で、今掛かっているアルバムだけがスポットで照らされていた。そんな音楽を聴いてきたものだから、これが好きというものが無い。ジャズでもラテンでも、ロックでもAORでも耳が聴いて心地よいと思う音楽ならジャンルは問わない。クラシックも息子の影響で聞いて入るけれど、まあまあそんな塩梅である。

 そうそう数年前、このインクスポットをやっていた店主が恵比寿に店を出したというので出掛けてみた。雰囲気も良く、賑わっていた。やはり店主はやり手のようである。(勿論、尊敬を込めて)



2020年4月14日火曜日

コロナの前の世界、後の世界

2020年世界中をコロナウィルスが席巻し、政治経済活動も大きな変化を余儀なくされている。
私がこの事態(パンデミック)が起こるのではないかと感じたのは2月の上旬に軽井沢を訪れた時だった。武漢を発端にしたウィルスの影響で鎌倉や京都の観光地では中国人の旅行者が激減したと言っていたので、軽井沢もさもありなんと嵩をくくっていた。ところが来場者のほとんどは中国人だったのだ。政府が水際対策をしきりに打ち出していたころである。団体のツアー客は少なくなったが、個人の旅行者は目に見えない恐怖からずっと前に国外に逃れていたのだ。これでは水際対策では甘い。すでに国内に感染源が入り込んでいたのだ。
専門家の言葉もあてにならない。このウィルスは飛沫感染なので戸外ではうつりにくいと言っていた。マスクは必要ないとも。そしてインフルエンザ程度の致死率とも。専門家と言われる人は過去の経験や実績に基づいて発言する。正常化バイアスそのものである。新しいものには全く通用しない。結果、今日の蔓延を招いている。
中小の小売業、飲食業、エンタメ業界も壊滅である。それらの店子に建物を貸している大家にも家賃の値下げや猶予が求められている。大企業も安泰など出来ない。ソフトバンクの1兆円の赤字、オンワードの大幅閉店、航空会社、旅行会社の打撃は計り知れない。誰もが何かしら対応しなければと考え行動しようとするが、こういう時には最適値を求めてはいけないのだ。流れに身をまかせるしかないのだ。
何故ならそれら全ての事は命に比べれば小さいからである。命を守ることが何より優先されなければならないのだ。特効薬がない上に医療が壊滅状態に近い。病院に行くことそのものがリスクになる。今は己の命を守ることのみを考え、この悪魔より怖い見えない敵が通り過ぎていくことをじっと我慢して、次に会う時に「命があってよかったね」と言えるようにすべての価値観をリセットしてみるしかないのだ。全てはコロナの後の世界を見るために。

2020414


2019年9月12日木曜日

20世紀はエンジンの時代 村上春樹

 艾年を過ぎた世の男性の多くは、子供頃、車に興味を持っていたと思う。勿論、その願望や好き嫌いの指向性の強弱は異なれど少なからずはである。それが大人になるにつれ自分の生活や家族のことを優先するあまり、願望は霞の中に消えるが、心の奥底には炎は灯っているのである。
 ところが世の最近の若者はそうでもないらしい。炎どころか車は単なる移動手段の一つ、所有することもコスト面から嫌う傾向にあるという。確かに宇沢弘文先生はずっと前に「自動車は不経済である」と断言されていた。若者の言うとおりである。
 私はその艾年まではどうしても乗りたい車を封印してきた。まさに前述の通り社会的にもまた家族のことも考えてのことである。しかし、歳をとるにつれてあと何台車が乗れるのだろうかと考えるようになった。
 私が今まで乗ってきた車の多くは、そのエンジンに惹かれてである。まごう事なく20世紀はエンジンの時代だった。BMWその回転の吹け上がりがあまりにもスムースだったシルキー6と言われた直列6気筒エンジン。ベントレーに搭載された大排気量のロングストロークのOHVエンジン。そして水平対向6気筒ボクサーエンジンの911である。このエンジンの特徴はVエンジンのようにバンク角を持たない。高さも必要ない。ただし、横幅は必要だ。その動きはボクサーと呼ばれるようら水平にピストンを動かすため、振動の制振がすこぶる良い。あの形にしてこのエンジンなのだ。
 9年前に手に入れた型式ABA991M9701のカレラSは6万キロを超えた。もちろん最新式の911ではないが、れっきとしたシュットゥットガルドで作られた車体だ。最新式にも乗ったがお行儀が良すぎて私にはこのくらいTomboykの方が好みだ。
 村上春樹氏の小説にはよく車が出てくる。彼自体は大きい車よりフィアットのような小型のイタリア車が好きなようだが、例えば「ドライビィング・マイ・カー」に登場するのは黄色のサーブ900Cであるし、BMWも登場する(どの小説か忘れたが・・)
 ポルシェ911も確か登場した。自宅とオフィスを通勤に使い、毎日低速で走行するという小説での設定だった。その時は奇異にも感じたが、今ではその行為が決して退屈な行為ではなく、その儀式的とも言える行為そのものに、現在の論理や経済性によってオートノミー化した時代に、パリティを壊せととばかり投げかける彼なりの皮肉なのではないだろうか。最新号のエンジンいう雑誌に新旧のポルシェを乗った春樹氏の対談が掲載されていると聞いた。もちろん、取り寄せたがまだ届いていない。
 話は変わるが、青い大手金融機関からの雑誌に「経営者は感性を磨け、美意識の蓋を開けよ」との話題が取り上げられていた。感性も美意識も経済性や合理性では生まれない。好きか嫌いか、ではなぜ好きなのか。自分の深部に宿るのである。曜変天目を見て、宇宙を感じる心があれば、オートノミーは簡単に壊せるのである。
 今日も246を911のハンドルを握り制限速度で30分かけて事務所までやってきた。ラジオも音楽もかけずに・・ただ、エンジン音を聞きながら・・

2019年9月12日

https://www.facebook.com/masahiko.sugiharahttps://www.facebook.com/masahiko.sugihara

2018年11月30日金曜日

寿司という食べ物

寿司という食べ物

日本人は大方、寿司が好きである。確かに周りを海に囲まれ四季を通じて色々な魚種が楽しめる地理的立地からも道理である。しかしながらそれも高度経済成長と列島改造による流通網の整備がされた後の話である。
私が小さな頃、関越道はまだ開通していなかった。私の住む北関東のK市から東京に行くには東松山まで一般道を走り、やっと高速に乗ることが出来た。東京まで4時間近くかかっていた。そんな状況だから新鮮な魚を手に入れるのは至難の技であった。それ故子供心に寿司が美味しいと思った記憶はない。寿司が美味しいと思ったのは上京してからの話だ。
回転寿司は1958年大阪の元禄寿司として登場した。と言ってもこれほど全国津々浦々に膾炙されるようになったのは1980年代以降である。娘が小学生の頃、カウンターの寿司屋に行こうと誘うと、回転してなければ嫌だという。我が家の家計の状況が垣間見られる話だが、その後、自由が丘の回転寿司店でたらふく食べた。
寄る年波、何とか回らない寿司店でも食べられるようになったが、このところ一つ気になる事がある。それは店側が予め決めたコースで一斉に食べさせるシステムが多くなった事だ。確かにプロが吟味した最高の食材かもしれぬが、人間というのは厄介な代物で、タコが好きな人がいれば好きでない人もいる。イカ同様である。さらに食べさせてやっているという店側の態度を感じた時には、ミシュランで星を取っていようがいまいが、私は席を立ちたくなる。
いつから寿司はそんな高級な食べ物になったのだろう。庶民に愛された江戸のファストフードだったのではないか。
日本橋に古くから続くY寿司という店がある。ここは良い。客に押し付けでなく好きなものを食べさせてくれる。食材に対する研究も怠らない。今のご主人のお父様は他界されたが、寿司の歴史についても研究怠らなかった。高みに登れば登るほど平謝温厚にて口数少なしが良いとされてるのは言うまでもない。

20181130



2018年11月5日月曜日

続けるという行為 幸せのお裾分け

 40歳の時、髄膜炎で入院したのをきっかけに、ブライベートでは嫌いな人、尊敬できない人とは付き合わないと勝手に決めました(笑)我儘な性格ゆえ元来友人の数も多い訳でなく、そこに来てのこの判断どうなるものかとほんの少しは心配でもありましたが、この20年近くを振り返ってみるとその関係はあまり大きく変わらないことが分かったのです。
 私の場合、高校や大学の友人以外では、仕事関係の友人は少なく、どちらかというと家の近所でただ犬を飼っているということだけで集まった人達と20年来楽しく付き合わせてもらっています。さらにこのメンバー全員夫婦、家族単位でのお付き合いという点も特筆できます。年齢的には私達と同世代のご夫婦、そして一回り上のご夫婦、さらにその上のご夫婦といった具合で年齢的にも職業的にもバラバラです。ただ一つ言えることはそれぞれのご主人はその本業においてエキスパートであり、人格的にも尊敬できる人たちばかりです。
 先日もその一人のドクターのご自宅でのBBQパーティがありました。このパーティも突然思いついて開催するのではなく、20年同じような季節に、同じような環境で、同じ手作りの料理を出してくれているのです。私などドクターの作るこのタンシチューを食べないと冬がやってこないくらいですから(笑)ドクターの多忙な時間を割いて私達のために美味しいタンシチューを作ってくれることで私達は幸せのおすそ分けを頂いているようなものです。毎年同じような時期に繰り返されるこの行為は回を重ねるたびに、その行為そのものがアイデンティティ化されていくのです。
 12月にも別の友人のご自宅で同じように恒例のクリスマスパーティが開かれます。参加する私達はただ感謝しかありません。
 同じような時期に、同じような手料理を出し、皆んなに幸せを分け与える、とても素敵なことです。ある著名な人が言っていました「手料理でもてなすことこそどんな高級のフレンチや懐石料理より、最上の接待である」私も同感です。




2018年9月14日金曜日

凡庸なる額

 私たちの行動は過去の成功体験に基づいて行動している。生物学的に見ても学習行動と呼ばれるそれは人間に限らず他の生物でも見られる。例えば猿に赤い紐と青い紐とでとちらかを選ばせたならば、過去において良い経験=成功経験をした時の紐を引っ張るだろう。

 ところがこれを同じようにビジネスの世界で行えばどうなるだろう。イノベーションは過去の成功体験からは生まれないのだから、その組織はゆくゆくdinasoursに成り果てる。
過去の成功経験と言っても多くの場合、一つの要素では決まらない。マーケットやその時の販売チャンネル、顧客の特性など様々な要素が複雑に関係しあい、決定されるのである。失敗をすることが怖い。ならば過去と同じ方法で行うなど論外。その時その時の最適解を求めなくてはならないのだ。

 昨日も打ち合わせの中でこの要素が鎌首を待ちあげた。素早く打ち消して凡庸なる額を押さえたのは言うまでもない。


2018年9月11日火曜日

小説神髄

 この夏、先兄に勧められて早瀬 耕という私より一回り若い作家の小説を読んだ。最初に読んだのが「未必のマクベス」という小説だった。プールサイドでゆっくり読むつもりだったが、冒頭のマカオのカジノのシーンからそのまま引き込まれ一気に読んでしまった。小説がデビュー作「グリフォンズガーデン」から20数年ぶりの新作と知ったのは後だった。そして彼のデビュー作、その続編とも言うべき「ブラネタリウムの外側」を続けて読んだ。読後の感想はどれも清々しいものだった。
 彼の小説をSF小説と言う人がいる。何故、人はそう決めつけるのだろう。小説は小説である。読後に清涼感を感じ、また読みたくなる小説は良い小説である。それがSFであろうと、難解で読みづらいものであろうと良い小説とはその一点に尽きる。
 ロパート・A・ハイラインの「夏の扉」も私にとってはそうだった。学生の頃、一気に読み進みその読後の満足感は今でも覚えている。ただ、その当時、アメリカの公文書図書館があった街「カールスバッド」を知ったのは息子の机の上にこの小説があったのを発見した30年も経った時だった。
 村上春樹を好きな人も嫌いな人もいる。それはそれで良い。でも前述の私のように自分の知識や見識が乏しく気づかなかったり、知識や見識を取り入れたくないという怠惰な考えのため拒否しているならば既に読者崩壊である。
 美意識というもの、自らの嫌悪の集積であると伊丹十三はその考えを述べているが、それはあくまで嫌悪できるだけの知識の集積の上に成り立つ。
 早瀬 耕にしても村上春樹にしても読者をその世界に連れて行ってくれる。それは私たちの記憶の断片に語りかけ「ねえ、そうだったでしょう」と甘い言葉で囁きかけてる。
3号線から見える西陽のあたるベランダにゴムの木のあるマンションを探したものは私だけではあるまい。陸羽茶室で広東語と大きな麻雀牌あたる喧騒のなかで、何故かBei XuのTou are so beautifulを聞いたのも私だけではあるまい。