私の同期の三浦展氏が「下流社会」を上梓して久しい訳ですが、その後の「三低主義」を建築家としてのK氏の資質に疑義ありと酷評したことは周知です。
私の住んでいる田園都市は彼のいうニュータウンそのものです。多くには彼の問題定義する地域の人間関係は「一般的」にいったら希薄です。学校でのPTAも進学に血眼で同様に希薄であるといっていますが、そうでしょうか?実際に息子の通っていた筑駒はそうではありませんでした。真剣にガリ便する人はあまりいません。さらに私の周りの犬友を見ても「他人と同じく突出を嫌う」という人はおりません。皆、個性的で有能です。
つまり、彼の標準解としている「一般化」はこの場合何の意味も持たない場合もあるのです。
しかし、彼が「下流社会」が問いかけていた警鐘は嘘ではありません。
数年前、私のところで働いていた人間が退社したら小説を書きたいと言っていました。彼の優しさもあってそのようにして後輩に道を譲る事を決めたのかもしれませんが、私にはこのように「何なにをしたい」というこういう若者が多いことが気になります。
「自分の理想はこうだ」「自分は何なにには向かない」「世の中間違っている」こう主張する若者の多くは、戦後のリベラルな教育(皮肉で言っています)で何もインプットせずに成長してきたのです。
嫌なことは聞かない、しないです。だから、主張はいつも自分中心のアウトプットです。つまりフローする若者です。
彼らは間違いなく三浦氏の言う「下流社会」に陥るでしょう。何故なら、インプットがないことは関係性が希薄であることなのですから、人間関係=仕事はうまく出来るわけがないのです。
仕事は人間関係です。誰と交わるかにより決定されます。
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