村上春樹氏の小説は世界中の国で翻訳出版され読まれているのに対して、日本人の愛してやまない司馬遼太郎氏のものは翻訳さえほとんどなされていないと以前書きました。
司馬遼太郎氏の小説はいわば歴史を言葉で表現したものです。私たちは体験していない(過去は体験できない)ものを「こうだったのか」と頭の中にしまいこむ作業をする訳です。
私たちは授業で歴史を学びます。だからそこには事前知識と司馬氏の文章が重ねられそれぞれの捉え方が出来る訳です。
しかし外国人の場合は違います。よほど日本の歴史に精通した人ならば別ですが、普通の外国人には難しいのです。
逆の場合もあります。例えば「ツリー・オブ・ライフ」というパルムドールを受賞したショー・ペンとブラッド・ピットの名優二人による映画が公開されていますが、この映画も映像の美しさと演技力は普通の日本人は理解できるのですが、こと受け継がれる何かとしてのキリスト教的世界観に話が及ぶと今一つ実感できないのです。
では村上氏の小説はどうなのでしょう。それは誰もが現実の自分を等身大で「置き換える」ことが出来るのです。誰もが青豆になり、圭吾になれるのです。それは他ならぬ村上春樹氏の抽斗の多さの為せる技なのです。
例えば3号線のすぐ横に建っている西日のあたるマンションのベランダにある鉢植えの木は「ゴムの木」でなければならないのです。ベンシャミンやサボテンでは駄目なのです。こうしたトラップが私たちを村上ワールドに引き込んでいくのでしょう。
つまり抽斗が多ければ多いほどその筆致多くの人の共感を呼びます。
ヘミングウェイが今なお読み継がれているのは、彼の文章は自らが体験してきたその事実だからです。海の描写も釣り上げる記述も彼が全て体験したものをバラバラにして再構築したものなのです。小説と言うミンチにはなっていても本当の肉の集まりです。
春樹氏はきっとものすごく観察力があるのだと思います。それをせっせと自らの抽斗にしまって必要な時に取り出して構築するのです。
小説はあくまで、私小説です。全くのフィクションなど存在しません。自らの体験したことを切り刻んで、再構築するその一言です。
小説の真似ごとをしてみて、小説家とは如何に大変かわかりました。食に関するエッセイ程度ならなんとか出来そうですが、長編となると最初に何を書いたのか忘れてしまいます(笑)
書くと言うことは自らの抽斗をひとつづつ無くしていくことなのです・・・・・・
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