ヨシヒコは海に浮かんでいた。初冬だというのに暖かな日だった。英語で言うインディアンサマーの語源はこの暖かい日を利用してインディアンが冬支度をする為の日だったことを思い出した。
大磯の防波堤から飛びこんでエントリーするこのポイントは他が風でクローズアウトするときでも護岸が風をさえぎりサーフィンすることが出来た。
ヨシヒコはサーフィンを始めたときのことを考えていた。
ヨシヒコは大学1年の頃藤沢にある友人のところに1カ月近く居候をしていた。
友人の家は広く、芝生の庭の真ん中にはプールがあった。
その家には車が3台あり、友人はツインキャブのトレノに乗っていた。白黒のツートンのボディーのそれは後になってハチロクと言われた車だった。その車で湘南中のポイントで波乗りに明け暮れていた。
当時のサーフィンはとてもローカル色が強く、ローカルに認められなければ海に入ることすら許されなかった。ヨシヒコは友人のお陰でかろうじて海に入れてもらえた。残念ながらヨシヒコは一番良いポイントではなく、岸に近い初心者用のポイントだった。
疲れと空腹に苛まれると花水の商店街にある「花水ラオシャン」に通った。タマネギと麺のシンプルな丼にお酢を回しかけ、それをすすると得も言われぬ幸福感を感じたものだった。
その夏の終わり、ヨシヒコはバイト代を貯めて初めて中古のボードを買った。永福町のバイト先の近くにあったエ**というサーフショップだった。値段は確か4万5千円だった。ヨシヒコには思い切った買い物だった。
ボードはT&Cのデーンケアロハというモデルで白い木地に黄緑のカラーリングがしてあるものだった。長さは6.1のわりに、ケアロハの体格からかテールが厚かった。当時はまだトライフィンは出ていなかった。いや正確には出ていたかもしれなかったが、ヨシヒコには手の出ない高値の花だった。
このボードは数奇な運命をたどることになるが、この話はまた後で・・・
ヨシヒコはこのボードに跨りながら、抜けるような青空を見上げた。
ヨシヒコは高校の親友のひとりタカシのバイトに付き合っていた。いや、便乗させてもらっていたのだ。タカシのアルバイトは早朝、用賀の自宅近くにあるトラックで竹橋にある新聞社に出向き、刷りたての朝刊を詰め込み、二宮の販売所まで届ける仕事だった。行きは高速を使うが、届けてしまえば何時に着いても文句を言われない。ヨシヒコとタカシは荷台にシートをかぶせてボードを隠して毎日、この帰り道にサーフィンをしていた。今日もそんな1日だった。
国道134号線を東に走ると左手にパシフィックホテルが見えてくる。ヨシヒコは数回そのホテルに行ったことがあったが、湘南の社交場として名をはせたその建物も、かつての栄華は過ぎ、侘しささえ感じられた。
水で軽く流しただけなので、髪の毛は塩が結晶になって光っていた。11月だと言うのに足元は裸足でビーさんだ。
二人はまだ将来について何一つ定かなものはなかった。ヨシヒコ20歳の11月。
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