昨年は体調不良のた出席できなかったOB会に今年は出席しようと思っています。5月16日に開催の予定です。
教育とは何だろうと時々思ってしまいます。こうやって50才を過ぎると教育、学校の違う意味が見えてきます。そうもういちどあの頃の自分とどう離れたのか再確認する良い機会です。親友の術後の回復が心配ですが彼女のこと不屈闘志でじきにカムバックすることでしょう。「そこにいる」大人として若者に機能しているのかどうでしょう?
内田 樹先生のブログに良いことが書かれていました。引用させていただきます。
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「教育のアウトカムは卒業時点で考量されるものではなく、卒業生ひとりひとりが卒業後に過ごす時間のなかで形成してゆくものである」と申し上げる。自分がそこで何を学んだかは、卒業してから長い時間が経たないとわからない。ひとによっては数十年経ってはじめて受けた教育の意味がわかるということが起きる。それは、卒業時点で眼に見える知識や技術や資格や免状を持つことよりも、ずっと教育的には意義のあることだと思う。私はそれを「卒後教育」と呼んでいる。「卒後教育」の主体は卒業生たち自身である。ラカンの「分析主体」analysant をまねて言えば「教育主体」éduquant は卒業したひとりひとりである。私たち教師はその活動については、間接的な支援をすることしかできない。私たちにできるわずかな支援のひとつは「母港」としてそこに「ある」ということである。学校はあまり変化しない方がよい。これは30年余教師をしてきた私の経験的実感である。
学校というのはそれがある場所も、建物も、教育プログラムも、校歌も、制服も、どうでもいいような校則も、できるだけ変えないほうがいい。
「学校制度には惰性がある」ということを私に教えてくれたのは諏訪哲二先生であるが、それは単に事実としてそうであるということにとどまらず、そうあることによって機能している部分があるということである。そのことに、諏訪先生からその言葉を聴いたときには気づかなかった。
今は少しわかる。
それは「変わらない学校」が定点としてあることによって、卒業生たちは、自分が「そこ」からどれくらい離れたところまで来たのか、「そこ」にどれくらい深く繋がっているのかを計測することができるからである。
「教育のアウトカムを考量する」と上に書いたけれど、それができるためには、「定点」が計測の基点として存在しなければならない。自分の場所を知るためには、定点が存在しなければならない。
学校の、あるいは教師の重要な社会的機能は「定点」として、卒業生たちのために、「そこにいる」ことである。
2 件のコメント:
変わることのない普遍的な教育プログラムを有している教員がどれほど現在の日本の大学にいるのか。狭い専門分野の中に閉じこもり、世の中の変化に追いつけないでいる教師が何と多いことか。
今日、大学教育の質はグローバル化を背景に以前に増して熾烈な競争下に晒されている。
それに積極的に対応している知の拠点、大学が日本にどれほどあるのか。今、大学人にはそれが問われている。(K.S)
その通りです。
大学教育の全体的な質は低下し続けています。さらに変わり身の早い教育者がいかに多いことか。嘆かれます。
母船となるような教育を行うことはまさに贈与であり、返済を求めない教育の本質に迫ります。
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