内田先生がブログで面白い事を書いていたのでご紹介します。私もそう思うからです。
ー中略ー
天賦の才能というものがある。
自己努力の成果として獲得した知識や技術とは違う、「なんだか知らないけれど、できちゃうこと」が人間にはある。
「天賦」という言葉が示すように、それは天から与えられたものである。
外部からの贈り物である。
私たちは才能を「自分の中深くにあったものが発現した」というふうな言い方でとらえるけれど、それは正確ではない。
才能は「贈り物」である。
外来のもので、たまたま今は私の手元に預けられているだけである。
それは一時的に私に負託され、それを「うまく」使うことが私に委ねられている。
どう使うのが「うまく使う」ことであるかを私は自分で考えなければならない。
私はそのように考えている。
才能を「うまく使う」というのは、それから最大の利益を引き出すということではない。
私がこれまで見聞きしてきた限りのことを申し上げると、才能は自己利益のために用いると失われる。
「世のため人のため」に使っているうちに、才能はだんだんその人に血肉化してゆき、やがて、その人の本性の一部になる。
そこまで内面化した才能はもう揺るがない。
でも、逆に天賦の才能をもっぱら自己利益のために使うと、才能はゆっくり目減りしてくる。
才能を威信や名声や貨幣と交換していると、それはだんだんその人自身から「疎遠」なものとなってゆく。
他人のために使うと、才能は内在化し、血肉化し、自分のために使うと、才能は外在化し、モノ化し、やがて剥離して、風に飛ばされて、消えてゆく。
長く生きてきてそのことがわかった。
豊かな天賦の才に恵まれた多くの若者を見てきた。
彼ら彼女らは若くからはなやかな業績や作品を生み出し、高い評価を受け、すてきなスピードで社会的なプロモーションを果たした。
彼らは自分の才能の効率的な使い方については十分に知っていたが、「才能とは何か?」という一般的な問いを自分に向けることはあまりなかったようである。
なにしろ、生まれたときからずっと才能があり、才能がいきいきと活動している状態が天然自然なので、あらためて自分の才能の構造や機能について省察する必要を感じなかったのである。
それも無理はないと思う。
でも、ある程度生きてくれば、現在自分の享受している社会的なアドバンテージのかなりの部分が「自己努力」による獲得物ではなく、天賦の贈り物だということに気づくはずである。
それに対して「反対給付義務」を感じるかどうか、それが才能の死活の分岐点である。
ー中略ー
全部お読みになりたい人は先生のブログを見てください。http://blog.tatsuru.com/
そうなんです、「パンのための学問をするな」と私が言っていた事はこのことなんです。
私が内田先生のシンパであるのは先生もキチンと物質文明との親和性を持っておられるようだからです、ワタシャ聖人君子とはお付き合いできませんから(笑)
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