このブログを検索

2011年10月4日火曜日

L.A オレンジカウンティ 

ニューヨークで叔母に頼まれた親戚の見舞いに名代で出席したヨシヒコはすでにニューヨークを離れていた。

叔母は心臓の病気に長年苦しめられ、ニューヨークまでの長旅は危険だと主治医に言われたので子供のいない叔母はヨシヒコに頼むことにしたのだ。

親戚は叔母と同郷の山形の出身であったが、ニューヨークで暮らし始めて30年が過ぎようとしていた。そんな親戚の容体も叔母同様に芳しくはなかった。

数回の手術を繰り返していたが、体力的には限界に来ていた。

その親戚の家はニュージャージにあった。ニューヨークから地下鉄に乗って40分くらいの閑静な住宅地にあった。家の前には春楡の大木が秋の日に輝いていた。

アメリカはもとより、日本からも多くの知人や友人が駆けつけていた。人々は代わる代わる昔の話を懐かしみ、遠い目で過去の様子を探っていた。

本当はもう少しNYに滞在する予定だったが、その見舞いを済ますとなんだかはやくこの地を遠ざかりたい衝動にかられた。

ヨシヒコは大陸の反対側に住んでいる友人のところに向かっていた。飛行機はラガーディア空港から広大なアメリカ大陸の腹の部分を通過しLAに飛び立っていた。

ヨシヒコは思った以上の時間がかかる事にアメリカの国土の広さを改めて感じていた。

ロサンゼルス空港のことをLAXという。ヨシヒコは少し古びた妙に未来的な構築物を見て、以前見た「未来世紀ブラジル」という映画のことを思い出していた。

友人は大学を休学してロサンゼルスに滞在している。正式にはロサンゼルスではなくオレンジカウンティつまりオレンジ郡の田舎町に住んでいる。

彼はヨシヒコとは大学は違ったが、湘南で波乗りをしている内に友達になり、ヨシヒコが一番最初に買ったデーン・ケアロハモデルのT&Cのボードを譲り受けていた。

彼は今サーフィンをする傍ら、ガーデナーの仕事をしている。むろん正式なビジネスビザではない。

しかし、ガーデナーとは聞こえがいいが、ようするに人がやらないような肉体労働のことだった。

不法滞在の移民もこのガーデナーには多く、英語が通じないこともままあった。

友達はそのガーデナーの会社のロゴの入ったピックアップトラックに乗ってきた。親方に今日のことを話し貸してもらったと言っていた。会社の名前はオレンジガーデン&COという英国式のものだった。

トラックは渋滞を抜けると田園風景の広がる地域を走っていた。彼の住む所はサンクレメンテといい、治安は比較的良い場所だったが、同僚と二人で間借りしている部屋は相当古く、シャワーはわずかに水が出る程度だった。

ヨシヒコは日本から持ってきたお土産を同僚に渡し、数日間世話になることの礼をいった。

幸いなことにこの同僚はメキシコ系なれど英語が話せ、サーフィンもすると言っていた。

サンクレメンテのビーチは殺風景だった。少し北のラグナのような高級感も、ハイティントンのような活気もなく、少しさびれた感じのするビーチだったが、波はショルダーのはった良いうねりが入っていた。ビーチと道路を隔てる芝生の周りには黄色い花が咲いていた。

翌日、ヨシヒコのために休みをとった友人と日が暮れるまで、サーフィンをした。

友人はフリーマーケットで仕入れた9フィートのロングボードとアイパのツインフィンのショートボード、そしてヨシヒコから買ったT&Cのボードを持っていた。

ヨシヒコは暫くぶりに元自分のボードに乗った。友人はロングボードでレギュラーの形の良い波をグライドして楽しんでいる。

オフショアの風がグラーシーな水面を作り、その飛沫が風に舞い、太陽がきらきら輝いていた。

一日中、セッションを楽しんだ二人はビーチの外れにあるハンバーガースタンドに立ち寄った。

大きさは日本のマクドナルドの3倍はあるような大きなバンズに3センチもあるような肉厚のパテとピクルスのみだ。それをバドワイザーの瓶をラッパ飲みしながら2つづつ食べた。1つ4ドル、計8ドルの夕食だった。今回の中で一番美味しい夕食だったもしれない・・・ヨシヒコは満足していた。

2日後ヨシヒコは大韓航空のカウンターの前に居た。空席待ちの名前を呼ばれるのを待っていた。

格安の大韓航空は途中、ホノルルに経由する。ヨシヒコは折角だからせめて一日でもまだ一度も訪れた事のないハワイに寄ってみたかったのだ。

飛行機は急上昇して、ヨシヒコの乗っていたエコノミークラス最後尾のあたりには車輪を格納する音がギィギィと伝わってきた。飛行機はホノルルを目指していた。





0 件のコメント: