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2013年9月27日金曜日

安倍さんが変わった理由


安倍さんが好きだとか、自民党が嫌いだとかそういうことではありません。皆さんは安倍さんが変わったと思いませんか。私は当初どんな事情にせよ一国の宰相という重職を投げ辞任した人がもう一度務まるとは思っていませんでした。ところがどうでしょう。変わったとみるべきかマスコミが敢えて以前はそうしたことを公表しなかったのか定かではありませんが確実に仕事をしています。

前々日の深夜、カナダの首相と取り決めたシェールガスの日本への輸出交渉は大きな進展です。マスコミでは案の定それほど取り立てていませんでしたが、今後の日本のエネルギー政策を変える可能性のある一大事だったと思います。

そもそも20世紀のエネルギーは中東の石油に頼っていました。ところがその中東は民族的、宗教的対立でとても不安定な地域です。ひとたび戦争が起これば世界的なエネルギー問題が生じてしまいます。そこで安定的エネルギーを求めて原発に舵を取ったのです。もちろん皆様もご存じのとおり日本の原発政策導入には政治的からくりもあり、また原発フィクサーと称される人物もいて民意の反映の結果とは言い切れません。しかし、現実にこの原発を廃棄するには代替えのエネルギー政策が必要なのです。長期的には風力や太陽光、潮力といったエネルギーに転換するとしても当面は別のエネルギーに頼らざる得ないわけです。しかしながら日本にこのシェールガスは実用化できるレベルでは今のところ存在しません。
シェールガスの先進国アメリカから輸入する場合、プラントの多くは東海岸にあるためパナマ運河を通らねばならず20日ほど掛かってしまいます。ところがカナダは西海岸から直接運ぶことができるためにその半分の日数で済みます。当然コストは下がるわけです。つまり価格硬直が起こらずより安いカナダからの調達コストが他の国々から輸入する場合の基準に押し下げられた訳です。これは大きな進展だと思います。
以前、自民党のある県の後援会会長をしている先輩から安倍さんが首相を辞めた後、先輩のところに来たことがあって、その時の質問に対する答えの迷いのなさに驚いたと言っていました。先輩も首相の時の答弁のしどろもどろとの対比に驚いていたのかもしれません。
では、何故変わったのでしょうか。
私は安倍さんのブレーンがより重層的(レイアー)になったことが要因ではないかと思います。最近の政治家は似たような人と組みたがる傾向にあります。某政経塾出身の人たちの似ていること似ていること、金太郎飴のようです。安倍さんも首相の時は2世議員の典型のようでした、ところが今回は違います。これには好き嫌いは別として経済、外交、防衛のそれぞれのブレーンを配置してさらにそれら政策が上手く機能するような下準備(日銀総裁人事など)をしてから政策を実施したことが大きいと思います。またレイアーな人事は多層的な知識を生みます。それによって教育、福祉といったその他の範囲でも新たな取り組みが行われます。

7年後の東京オリンピックの招致に成功したことはさらに大きいと思います。少なからずそれまでは錦の御旗にこのことを謳えば様々な政策がインフラの整備と称して実行できるからです。ただ問題はそのあとです。私の周りの多くの経済人がそのことを心配していました。日本の正念場の7年となることは間違いありません。7年間のモラトリアムの間にこの日本という国が変わることが出来なければ確実に亡国の道を歩むことになります。
震災の復興も大切です。しかし、同じ町を戻すことが本当に復興なのでしょうか。三浦氏が書いているように復興における政策にはこのことが大切で被災者である多くの人たちも理解しなければならないのです。そして国家としてどのようなビジョンを国内外に指し示すことが出来るのかが本当に大切になってきます。安倍さん今度は投げ出さないでくださいね。本当の正念場なのですから。





2013年9月26日木曜日

1978年のサムタイム

1978年のサムタイム

1978年は私にとってのターニングポイントだった。笹塚、阿佐が谷、浜田山と安アパートを転々としながら大学に通っていた。
この頃になるとアルバイトも先輩や友人の斡旋もあり、割と効率の良いアルバイトをしていたので多少の自由になるお金はあった。もっとも一回少し贅沢な外食をしてしまえばなくなってしまう雀の涙ほどのお金だったのであるが、それでも興味のあることに費やすことが出来た。
あの頃、中央線の沿線は賑やかだった。賑やかというのは語弊があるかもしれないが、私が通いたくなるような店が多かった気がする。自転車で5分程のところにもジャズバーがあった。店主はウィスキー1杯で3時間も4時間も居座る私達を大目に見てくれていた。
私は時折、吉祥寺にも出掛けた。友人と行く時も一人の時もあった。吉祥寺という街は今でこそ住みたい町ナンバーワンになっているが、あの当時は何となく暗く、寂れてコンサバティブな感じがした。きっと街の発展がお寺によって分断され、箱庭のような小さなエリアにお店が集中していたからかもしれない。後で分かった事だがコンサバのはずが赤旗の多く読まれる街でもあった。
ちょうど開店して何年目だったと思うが、サムタイムとチャチャハウスという店によく出掛けた。サムタイムは今でも続いているが、チャチャハウスは無くなってしまった。
サムタイムではライブの演奏をやっていた。ジャズのスタンダード曲を覚えたのはこの店だった。1950年代の古いアメリカンバラードが心地よかった。そしてコルトレーンもここで教わった。酒とバラの日々を聞きながらフォアローゼズのソーダ割りを頼む。この店ではバーボンソーダ以外は頼まなかった。
一方、チャチャハウスでは古いジュークボックスから西海岸風の軽いロックが流れていた。
ここでは色々な飲み物を頼んだ。イーグルスを聞きながらテキーラサンライズも飲んだ。底に赤くたまったシロップが水平線から昇る朝日だと説明した事もあった。そんな遠い記憶。
私はそこにいながら1970年代をロクに知らずに過ごしていた。それでもその時代に今でも追い掛けられている。その影を振り払おうといくら思っても、ある時急に私の前に顔を出し、そら見たことかとアカンベーをしてせせら笑う。




2013年9月25日水曜日

ドラマツルギーな挫折とターニングポイント

ドラマツルギーな挫折とターニングポイント

 人間は歳には関係なくドラマツルギーであるが、特に若い時にはこの挫折が大きい。挫折の原因となるのは自らの演目を観客が評価しないことにある。当たり前と言えば当たり前なのだが、社会の一般性をまだ経験していない、ある意味では純粋無垢な心がそうさせるのだろう。その挫折を味わうからこそ、その先の成長や発展が見込める。若者はその時、その事を知らない。

若者はジレンマを起こし、自傷までして傍若無人に振舞う時期がある。人によってその時期も異なるであろうが、私の場合は高校2年の時だった。
ある時に目の前が真っ暗になり、先が全く見えなくなった。信頼していた友人の裏切り、狡猾な大人達、八方塞がりの状況は若者の心を大きく傷つけた。恐らく人生最大のこの危機こそ、人生における最大のターニングポイントだったと思う。
考えてみるとその時の社会が人の一生の考え方の基底になっているように思う。資本主義への反骨、平等主義、反戦それらすべてがアマルガムとなってルサンチマンの如く若者を凌駕する。私のその時は1974年だった。あの当時の世相が今の考え方の基底にある。夢を抱き突き進んだ先輩たちの学生運動は全て何もなかったように世の中は平然としていた。そんなことを口にする事さえ憚られた。世の中にも、大人にも信用する術を持たない。

 それから4年私の1978年はその続きだった。平穏な大学は戦う事を止め、豊かさを求める。企業戦士として資本主義に仕えるその前の一瞬としての執行猶予。苦しみや悲しみを放棄し、楽しさだけを追求したあの頃。何もかもが反対だった。

しかしいくら楽しさや豊かさを追求しても若者の心の奥にある乾きは癒えない。癒えないどころか一層激しくなる。ぎらぎらしたおどろしいまでの情念は深い淵の奥に隠され平和と成長と言う謳い文句によって封印された。





2013年9月24日火曜日

極上のステーキを


この頃、さしの多い牛肉のステーキより赤身の方が好みです。この傾向はお肉に限ったことではなく、お寿司でも中トロや大トロより、赤身の方が好きですし、マグロよりも白身の魚に目がありません。

ところがこの極上の赤身の肉というのが中々手に入りづらいものなのです。色々な店で購入しましたが、筋が多かったり、肉が硬かったりと思うような肉を手に入れることが出来ませんでした。

一度、接待で銀座の「かわむら」に連れて行ってもらったことがあります。あの時の衝撃が今でも忘れられません。赤身でありながら柔らかく、そしてレアなのに血は落ちない。噛めば肉本来の旨みが凝縮し、それでいて喉越しも良くすっと胃に収まって行く。そんな素晴らしいステーキでした
2年ほど前に岐阜の潜流を再訪しました。20年ぶりの邂逅です。出されたステーキも飛騨牛のもので美味しかったのですが、私には少々脂が多すぎたと感じました。

海外のステーキ店も良く行きます。アメリカのステーキはほとんどがアンガスビーフなので赤身が多く私には合っているからです。ところが店によって焼き方が違うため食感や味も変わってくるのです。ワイキキのハイズではキァベという香木でいぶしたステーキが有名です。また、BLTは同じアンガスビーフでもカナダで育てられたビーフを使うので食感も異なり、いくぶんこちらの方が柔らかく上品かもしれません。

そんなこんなで美味しい赤身を探していたら、日本にも熟成肉のブームがやってきました。そうなのです赤身こそ熟成肉が最適なのです。そんな事を喜んでいたら、そのブームの火付け役ともいえる「中勢以」が田園調布にオープンしたのです。小石川にも同店はあってそちらではイートインもあり、店で購入したお肉を調理して食べさせてもくれるようです。

そしてやっと昨日、田園調布まで行ってきました。購入したのは外モモとシンシンと言う部位です。
シンシンというのはシンタマと呼ばれるその真ん中の部分です。この二つを食べ比べる事にしました。
ここで断っておきますが、よいステーキを焼くコツというのは良い肉を手に入れること、厚さは3センチ、ある程度の塊(300グラム以上)の肉であること。そして時間を掛けて丁寧に焼く事です。
ステーキといえどもこのあたりはフランス料理の低温調理と通ずるものがあります。
3つ星のカンテサンスの岸田シェフが作るメカジキのポアレも手間と時間を掛けて休ませながら調理していくため、肉質は柔らかく、ほのかな甘みも備えています。
肉を切り分けてもらう際、職人さんは定規で3センチになるように包丁を入れました。さらに肉を丁寧に不要な部位を取り除き正味で提供してくれるのです。そう考えると以外と安いかも知れません。
外モモは醤油との相性が良いと言う事で、みそたまりと醤油を併せた調味料を作ります。シンシンの方は軽い塩コショウです。
まず、熱したフライパンに牛脂を入れて溶かします。不要な脂をフライパンから取り除き、肉の表面にさっと焼き色をつけます。このときに肉汁が出るようでは駄目です。肉をすぐに取り出しパットの上で休ませます。このときボウルのようなもので覆いかぶせるとゆっくりと温度が下がっていくために旨みを逃しません。

200度に余熱したオープンの下段で5分焼きます。そしてまた肉を取り出してボウルを被せて休ませます。これを4回繰り返します。そして休ませた肉の表面をフライパンでもう一度温めます。
お肉を焼くだけなのですが時間にして1時間近く掛ります。でも最上のステーキになる事は間違いありません。

自画自賛ですが、皿のどこにも血が残っていません。表面は香ばしく、肉のうまみがギュぅっと詰まった素晴らしいステーキの完成です。皆さんも如何ですか?こんなに美味しく出来るなら銀座まで出掛けなくても十分です。外モモもシンシンもどちらも美味しいのですが、柔らかさ、雑身の無さ、そして香りも含めてシンシンのファンになりました。息子が無言になるときは美味しい証拠です。
そうそう、ただしこのお店カードが使えませんのでそれだけはご注意ください。いや、久々の感動した食材との出会いでした。








2013年9月20日金曜日

秋の夜長のJAZZ PIANO

秋の夜長のJAZZ PIANO

昨日は中秋の名月でした。家の近くのススキを5本だけ花瓶に生けて満月を愛でようと20年ぶりに天体望遠鏡を屋根裏より引っ張り出し見ようと試みたのですが、光軸がずれてしまっていて結局見る事は出来ませんでした。それにしても綺麗な満月でした。

こんな日は静かな音楽が聞きたたくなります。JAZZに造詣が深いわけでも誰かの熱烈なファンという訳でもありませんが、耳に心地よい音楽が聞きたくなります。

大学生の頃、阿佐が谷に住んでいたことがあります。自転車で高円寺や吉祥寺に出掛けてウィスキー1杯で何時間もJAZZ BARにたむろしていました。今はもうなくなってしまった店がほとんどですが私のJAZZとの出会いは紛れもなくこの頃でした。

レコードを買うお金もなかったので深夜のラジオからカセットに録音していました。NHKのラジオでクロスオーバーイレブンという番組があって毎日欠かさずに聞いていました。オスカーピーターソンのNIGHT CHAILDという当時は異色の電子ピアノを使ったアルバムもその当時の物です。JAZZとは言い難いかもしれませんが私は結構好きです。

エディ・ヒギンス、リッチー・バイラーク、キース・ジャレット、ティエルリー・ラング・・・静かなピアノ曲が今日のような秋の夜長に聞きたい曲です。テイエルリー・ラング・トリオのプライベートガーデンは特にお気に入りです。

あれあれ確か昨日開けたばかりのジャックダニエルがもう空にになってしまいました。秋の夜長は時間が立つのも早いものです。





2013年9月12日木曜日

振り返ると言う事


この歳になるとあまり過去を振り返らない方が幸せなのかもしれない。2.3年前ならまだしも1年前の事でも自分が何をしていたかとなると全く覚えていないのだから。それでも私の場合はブログを続けて来た。ブログには日々の徒然が書かれているのでその時に何を考えていたのか文章を辿って断片は垣間見ることが出来る。

3年前、2010年の今頃を見てみると、結構いろいろな本を読んでいる。アマルティア・センの合理的愚か者を読んでホモエルゴノミクスとは何ぞやと考えていた。またフォン・フリードリヒ・ハイエクについて彼が新自由主義、新社会主義と呼ばれることへの疑問からハイエクのいうところの歴史無き場所で大掛かりな秩序を作る事を設計主義と呼び、全体主義の源になることの警鐘を考え、今の日本と照らし合わせていたこともあった。そして急に丸山眞男を調べてみたくなり彼の講義録を買い求め読みふけっていた。

あの年はまだ震災前だった。にもかかわらずどうだろう私自身の日本に対する閉塞感は今よりずっと強かったのだ。あのとき日本はどうにもならず沈没する気がしていた。何も手立ての無いまま船が海中に飲みこまれるのを待つような息苦しさだった。今はどうだろう。閉塞感が無くなった訳ではない。しかし、いずれ沈むかもしれないが何とかならないかとジタバタしている気がする。その分、息苦しさを忘れさせてくれるような気がするからだ。いや意識がもうろうとしているだけかもしれないのだが。

同じ頃、借りた目、借りた耳についても忠告している。この国に蔓延するこの二つの怪物は戦後日本の教育の荒廃により拡大続けた。そしてマスコミのポプュリズムらよって正当化された。それは今さらに拡大している。

倫敦のパブでは政治と宗教の話はしないという暗黙のルールがある。宗教や民族の対立が続いてきたお国柄当然と言えば当然だが、日本はどうだろう。無宗教の国民が大半この国では宗教の話しはすまい。政治の話とてあまり聞いたことがない。私は原発推進でも反対でもないが、原発事故直後、あたかも経験してきたような借りた目と耳で、国民に嘘を吹聴した人間が如何に多かったか記憶をたどってみるといい。もちろん大丈夫だと証拠もなく嘘をつく政治家も含めて。

メディアリテラシーなどという優しい言葉では足りない。この国には個人の思想がもはや宗教のごとく、その人間のみによって価値を持つ信条を平気で外部に向けて情報としてスピーチする。オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こした時、ひとりひとりは普通の人なのに、個人の信条が教義と重なり増幅された時の恐ろしさはリトルピープルとして認知し経験したはずなのにもはや大衆は忘れてしまっている。




2013年9月11日水曜日

1978 PERFECT DAY


錆が車体のあちこちについた茶色のフローリアンはブスブスという不快な音をたてながら国道から松林の小道に止まった。車のバックウィンドゥは土埃にまみれていた。
土埃が収まるのを待って、二人の若者は眠たい目をこすりながらドアを空け、車外に出て星空に手が届くような大きく伸びをした。月は雲間に隠れながら太陽の上がるのを待っていた。松林には初秋の風が吹き抜け、二人の頬をさすって流れていった。

二人は同じ高校の同級生だったが、今は二人とも東京の違う私立大学に通っていた。ひとりは一浪したため学年がひとつ下だったが、ノンシャランな二人はうまが合い、いつも一緒にいた。サーフィンを始めたのもほぼ一緒だったが、ほんの少し優夫のほうが早かった。二人は車の屋根についた緑色の安物のサーフラックからボードを降ろして、道路わきに立てかけた。優夫のボードはアイパのツインフィンのクリアデッキの真新しいものだった。久夫のボードは中古で買った稲妻マークのライトニングボルトの赤いボードであちこちにリペアの跡があり早く新しいものに買い替えたいと思っていた。

鍵をバンパーの中に隠して、二人が足早にビーチに向い歩いていく頃には東の空が明るくなり、金星は群青からオレンジのグラデーションの中に消えて行った。
ポイントにつく頃には烏帽子岩がくっきりとその姿を現していた。台風が種子島の東にあって東北東に向かっている。うねりは筋となって沖合から向かってくるが、オフショアの風で完全な姿を保っている。面は完全にクリーンで鏡のように朝日を浴びて輝いている。

サーフィンをしていて時折思うのは、今日のような完璧な日があるということだ。PERFECT DAY。湘南にも少ないがそんな日が数日ある。今日はそんな一日だ。
ポイントには二人以外にはいなかった。優夫が最初の波をつかまえてテイクオフするがレールがひっかかってワイプアウトした。ボードが飛沫をあげて高く舞った。久夫はうまく波をつかまえアップスンダウンを数回繰り返し波の裏側に消えて行った。二人でしばらくセッションを楽しんだ後、ポイントに人が集まり始めたので少し沖にパドルアウトしていってポイントの様子をぼんやり眺めていた。


10年経って、いや20年、30年経って今日の事をこの二人は覚えているのだろうか。今日のPERFECT DAYの事を。それよりも二人はサーフィンを続けているのだろうか。二人ともそれぞれの道を歩み、それぞれの家族を持ち、人生という荒波の中に船出しなければならない。今日はそのほんの束の間のPERFECT DAY




2013年9月9日月曜日

オリンピック招致における共感力


東京のオリンピック開催が決定された。招致に賛成する人もおれば反対する人もいる。私は正直嬉しい。少なくとも今日から3日程度は素直に喜びたいと思っている。そのあとで現実と照らし合わせて色々な問題を考えれば良いだろうと思っているからだ。
私は前回の日本のプレゼンテーションを見て聞いてがっかりしていた。

スピーチが少しも心に響かないのだ。経済効果がどうだとか、安心で安全な街だとか、財政基盤がしっかりしているとか、そんなことどうだっていい。本当に日本に来てほしいのだろうかそう思っていた。一部の人に見られるオーバーアクションのスピーチも興醒めだった。
ところが今回はどうだろう。とても素敵なプレゼンテーションだったと思う。心に響く言葉と言うのは送り手がオープンマインドでないと相手に届かない。2年前に震災で労苦し、さらに原発の問題では多くの人が今も大変な生活を強いられている。しかし、それが現実の日本なのだ。その事をひた隠しにしてスピーチしても決して相手に届かないのだ。ところが今回は被災地のアスリートが震災のことも、その余の事も包み隠さずスピーチした。しかも、凛として明るくにこやかにスピーチしたのだ。また、別の女性は不得手のフランス語(失礼)で必死に日本のおもてなしの心をスピーチした。そう、それこそもっと早く日本が世界にアピールするべき事だったと思う。世界中より日本に多くの人に来てもらいたい、その心が招致の本質だと思うからだ。こうしたスピーチは我われも含めて多くの委員たちの心に響いたスピーチだった。そして最後に我が国の首相が世界に向けて安全をq担保したのだ。多くの人が汚染水問題は何も具体的に前進していないのにふざけた事を言っている揶揄する。しかしそうだろうか、一国の首相が全世界に向けて発表したそれは、少なからず「やらねばならない」を増幅させるはずだ。原発の問題もオリンピックも同じように国家と言う単位で論じられるものであって個人や企業に矮小化するべきでないからだ。
今回の計画も耳目に値すると思っている。今回のメイン競技場は霞ヶ丘の国立競技場である。ここは現在複雑な屋根形状等より漏水が多くの箇所で発生し建物も相当老朽化している。だからここの更新に合わせた今回の計画は一石二長ということになる。さらに同様の武道館も活用すると聞いている。多くの新規建物はお台場周辺に集中させ、選手村は住宅として販売または賃貸されると聞く。コンパクトな会場設営によって大都会東京の日常への影響も局力抑えるという配慮もある。またこのところ人気のあるお台場のウォーターフロント周辺も鈴木知事が提唱していた頃には閑古鳥が鳴いていた。そして震災によって地盤の脆弱なこのエリアの人気は下がったのだ。ところが都心へのアクセスの良さが見直され人気が上昇しつつある。そして今回のオリンピック決定である。知り合いのマンション販売業者は急遽価格改定の会議を開くと言う。まさに鈴木知事時代の東京フロンティア計画がこの2020年に花を咲かせることになるのだ。

東京オリンピックの時、私は5歳だった。父の窯のある足尾で開会式を見ていた。足尾のテレビは白黒で選手の赤いユニフォームもグレーだったが、5歳の私の目にはすがすがしい秋の青空とともにユニフォームの色まで分かるようだったと記憶している。



2013年9月6日金曜日

鎌倉 Party Style 鎌倉風「カチェッコ」

鎌倉で大人数で集まる時、よく作る料理があります。アクアパッツアに似ていますが、リボォルノ風ということで「カチェッコ」と言います。二つの違いはトマトが入るか否か。あとはほとんど同じですが、海の近くでハマグリがとても安いので私はこのハマグリをいれたりして勝手に色々と私風に変えてしまっています(笑)魚はその日によって異なりますが、出来る限り鮮度が良くて旬な物を選ぶことにしています。私は自転車で3分のところにある魚屋さんで選ぶことにしています。写真はアマダイです。アマダイは古くなるとヌメリか多くなるのですぐわかります。ホウボウの時もあります。新鮮なホウボウは胸鰭の模様が綺麗で青い点がハッキリしています。もちろんどちらも目は透明で濁っているものはよくありません。皆さんも海辺の生活を楽しむなら是非試して見て下さい。本当に簡単で美味しいですよ。そして良く冷えた美味しい白ワインもお忘れなく・・・

鎌倉風カチェッコのレシピ

用意するもの
ホウボウ1尾、ハマグリ(10個)トマト(中ぐらい)8個、ニンニク(1片)、セロリの葉、パセリの茎、セルフィーユ、イタリアンパセリ、EXバージンオリーブオイル、白ワイン、岩塩、胡椒、レモン


(ハマグリは塩抜き、トマトは蔕を取り水洗い、ニンニクは芯をとる、パセリの茎は糸で結ぶ)

☆ホウボウの鱗と内臓を綺麗にして、身に包丁を入れ、水気をよく拭き取り、塩をふる
☆30分放置し、水が出てきたらその水をペーパータオルで拭き取る
☆フライパンにオリーブオイルを入れ、低温からはじめニンニクの香りを移す
☆ニンニクの香りが出たらニンニクは取り外す
☆魚の両面を軽く押しつけるようにして、皮目を焼く(焼き過ぎには注意)
☆セロリ葉、パセリの茎、トマト、ハマグリを入れ火を強めて、白ワインを魚の1/6程度まで入れ、同量の水を加え、岩塩、胡椒をして蓋をして、さらに火を強める(一番強く)
☆魚に火が入ったらセロリの葉とパセリの茎を取り外し、大きな皿にもってから、軽くオリーブオイルを魚に掛け、イタリアンパセリを手でちぎり魚にふりかける
☆食べる時に好き好きでレモンを絞って食べる















白灼基圍蝦

白灼基圍蝦

日本で食卓に揚がる海老と言えば車エビ、伊勢海老、桜海老などが古くからその代表格であったが、流通や輸送技術の発達で、深海で獲れる海老や海外から養殖して輸入される冷凍海老などその種類は大幅に増加した。タイや東南アジアで養殖されているブラックタイガーや主に中国から輸入されるパナメイ海老などが普通にスーパーで見かけられるようになった。
香港に通っていた時期があった。お目当てはあちらの海鮮料理である。今ではツアー客も多くなって観光客相手の店が多くなった、鯉魚門も当時はまだ安かった。
通りを歩きながら食材を物色する。その日のお薦めの魚があればその魚と貝類を買う。海老は量り売りの重さで買う。中々馴染めない斤の換算である。一斤600gであるから十分な量である。これを近くの料理店で料理してもらう。といっても簡単な料理で出来るだけ手を掛けない方が美味しいのだから仕方がない。海老は蒸してもらい熱々の海老を手でつかみ頭を取って生姜と醤油の中にトプンと付けて口に放り込む。海老は小さな芝エビのようだったが種類は分からない。兎に角新鮮なので旨い。ところが日本では中華街でもこの料理が少ない。私はこの蒸し海老を日本で食したことがない。先日も老舗の高級中華店で出来ないのか尋ねたが無理だった。何故だか分からないが、もしメニューにあったら真っ先に注文するのに残念だ。
本場の香港に限らず、どこでこの料理を食べても美味しい。ホノルルの中華街でもカフク産の海老で作るそれは香港の物よりやや大ぶりで身の食感も高い。これも中々旨い。いつぞや連れて行ってもらったロサンゼルスの近郊の中華店のこの料理も美味しかった。供された海老はメキシコ産だと言っていたが、本当に甘みの強い海老だった。
そこに行くまで海老の種類はどんな海老が供されるか分からないが、中華街は世界中にある。フランス語が読めなくても、ドイツ語が駄目でも、どんな店に入っても「白灼基圍蝦」と書けば間違いなくこの料理が出てくるのだ。






風立ちぬを観て 

 風立ちぬを観てきました。私は映画の評論家でもないので個人的なジブリファンとしての感想であることをまずご容赦ください。
 私はスタジオジブリの作品はほとんど観てきました。ところがこの作品は他の作品と少し違うなと感じました。まず最初に感じたのは観客の年齢層です。夏休みも終わった平日ということもあるのでしょうが、家族連れ、特に子供づれが皆無でした。私たちぐらいの年齢のカップルかひとりで観ている人がほとんどで若い人がいないのです。

 題名の風立ちぬはポール・ヴァレリーの「海辺の墓地」の中に出てくる詩を堀辰雄が訳したことで有名な言葉ですが、映画の内容についてはほとんどその援用で、主人公がゼロ戦の生みの親で知られる堀越二郎に設定していることぐらいなのです。でもエンディングには原作、脚本、監督が宮崎駿とありました。私としては少し拍子抜けした感じが歪めませんでした。

 映画と言うのは二つに分かれます。最近はやりの映画は視聴者の全く知らない未知の世界を映像を通して体験させるものが多く、共感と言うより、知りたいという興味が先立ち観客を別次元の世界に誘います。
 一方、観る者の体験の残像と重なり合わせて、もう一度過去を振りかえらせる映画というものがあります。例えば戦国時代を題材にした映画は私達は原体験していない訳です。例え教科書や歴史本んで知っていてもそれは体験ではありません。ところが今回のような大正から昭和に掛けた時代のものは体験の残像と重なるものがあります。そうした映画の場合、どれだけその残像を持っているのかということが視聴者の満足感につながる訳ですが、観客の様子を見ていると、特に航空機に詳しくない女性や当時のサナトリウムを知らない人にとって少し退屈だったような気がします。

 昭和30年くらいまでは日本には結核の特効薬である、ストレプトマイシンはまだ普及していませんでした。映画の中では原作に忠実に富士見療養所とありましたが、私がまだもの心つく前に叔父は榛名山近くのサナトリウムで亡くなりました。私はうろ覚えながら叔父が施設に向かった日の事を覚えています。叔父は母に決して私を連れて来てはいけないと言っていたようです。あの頃は天地療法といって、真冬でも戸外で新鮮な空気を吸うことが良いとされ、映画のようなみのシーンが登場した訳です。

 一方、飛行機についてはさらに専門的になります。ドイツのユンカースという飛行機は当時まだ珍しかったジュラルミンを用いた飛行機でした。ジュラルミンの強度を上げるためにあの独特な縞模様があるのですが、一方では航空機の宿命である軽量化には貢献できませんでした。そうした当時の状況や、堀越二郎が作った試作機が本当はゆるやかなガルウィング形状だったこと、実際のゼロ戦は直線翼だったことなどを知っていれば、この映像を観てなるほどと感心出来たでしょうが、そうでなければその違いには気づかなかったのではないでしょうか。

 映画の中で軽井沢が出てきます。碓氷峠の高架橋、赤い屋根のホテル、泉湧く森の中、外人がむしゃむしゃとクレソンを食べる、こんなシーンも軽井沢を知らなければ面白くありません。

 映画全体としてはもう日本になくなってしまった「あの時」を表現したかったのだと思います。映画の中で二郎が「どうして亀の時間じゃいけないの」と言うシーンが象徴的なように、日本は1945年で爆発して新しい時間になったのです。だから当時のような時間はもう存在しないということになります。奇しくもヴァレリーと同年にマルセル・プルーストが生誕しています。本映画の言いたかったのはまさに「失われた時間を求めて」ではなかったでしょうか。

 しかし、私は思います。もし私の祖母が生きていてこの映画を観たら何と言うでしょう。恐らく観たくないというのではないかと思います。祖母たちにとってあの時代に戻る事はないのです。何故なら彼女達自身が今の時代を生きることを選んだのですから。そこが私と宮崎監督の一番の相違点なのかもしれませんね。だからまだ引退は出来ないのです・・・・

2013年9月4日水曜日

日の出食堂のハムエッグ

 上京して最初に借りたのが笹塚の水道道路沿いのアパートだった。アパートは昭和の初めに出来た和洋折衷の建物で鮮やかなコバルトブルーの瓦がその古さとアンバランスだった。
 壁はくすんだベージュのモルタル壁で無数のクラックが入っていた。階段はモルタルで盛られていたが水平で無い踏み面は気をつけなければ重力で後ろに首を持って行かれそうなものだった。
 アパートの名前は日の出アパートといった。日の出といっても東も西も建物で囲まれ、挙句の果てに南側は一段高くなった水道道路であったから日が射すことはなかった。
 部屋の間取りは3畳で、トイレも台所もついていない家賃1万3千円の部屋だった。田舎から持ってきたものは安普請で作ったオレンジ色の食器入れと、誰かからもらった合板の濃い茶色の引きただしタンスだけだった。西側にある窓ガラスは曇りガラスで、ぼんやり映る隣の赤いビル壁がまるで怪獣のようだった。

私はその穴倉のような部屋から毎日、毎日、慣れない都会の砂漠のジャングルに出掛けて行った。あの頃、周りにあるものは全て自分に危害を加える敵だった。どうしてあの頃あんなに心が荒んでいたのか今も分からない。都会に出てきて庄司薫の書いた「赤ずきんちゃん気をつけて」の物語が自分とは別の世界のものであることが分かりかけてきて一層心の荒廃に拍車をかけた。
お金も無く、友達も無く、そして食べるものさえない若者は1日1食の生活を続けていた。若者の命の糧は新宿駅構内の立ち食いのカレーだった。毎日飽きもせず同じメニューを食べ続けた。
若者は出来るだけ大学に長い時間居た。先輩にご馳走になるのはお財布と出来るだけ遅く帰りたいと言う若者の欲求を同時に満たすものだった。

それでも早く帰ることがある。西陽の照り返す共同の台所からトントントンという大根を切っているような平穏な音が聞こえる。
 アパートの住民の多くは高齢者だった。それも独身の高齢者がほとんどだった。彼らの境遇や人生がどのようなものであったか、若者は知らなかったし、知ろうとも思わなかった。ただ、こにいる事が若者には苦痛だった。若者はその音がすると踵を返して隣の食堂に行った。その時間ならばアパートの横で夫婦でやっている定食屋が開いていたからだ。確かこちらも日の出食堂といったと思う。残念ながら記憶があいまいである。

 体格も笑い顔もふくよかな女将さんと御主人で細々と営業をしていた。店のメニューは定食屋のそれらしく、鯖の味噌煮定食、とんかつ定食、焼き魚定食、などだった。その中で一番安い定食が納豆定食で次がハムエッグ定食だった。血気盛んな若者は納豆だけでは物足りないので、2番目に安いハムエッグ定食を頼んだ。ハムは透けて見えるほど薄いスーパーで売っている安いハムが2枚付いていた。目玉焼きはこんがりと焼き色がついていて、必ず半熟で供された。当時はキャベツは安かったので山盛りに盛られていた。女将さんが機嫌かよく、他に客がいない時には色々なものを供してくれた。ひじきの煮ものであったり、煮豆であったりした。ハムエッグは美味しかったのだが、若者はそうされることが段々苦痛になってきた。自分が何もできず、人にしてもらっているという重圧がいつしか足を遠のかせていった。

 アパートも食堂もとっくの昔の無くなってしまった。ただ、私の部屋だけ松田優作主演の探偵物語で使われたのでDVDに残っていた。先日、30年以上たってこのDVDを観て、オレンジ色の食器入れもメラミンのタンスもしっかり映っていた。ただもカーテンの色だけが変えられていたが・・・

今でもハムエッグを食べるとほろ苦いあの時を思い出す。



2013年9月3日火曜日

方丈記 安井かずみ カパルア

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」


この頃、方丈記の冒頭のこの一節を特に意識するようになりました。大切な人の死も含めて、去年までの事がずっと昔のことのように思えることがあります。

娘が駅から電話を掛けてきて、妻が迎えに行き、玄関から2階に駆け上がる娘の足音もずっと昔のことのようです。

犬たちも歳を取りました。セプはほとんど動きません。さくらもソファにあがるのがやっとです。

人生というのは本当に不可逆的なのだと強く思います。ああすればよかった、こうすればよかったと思っても同じことは出来ないのです。

今年の夏休みは鎌倉で長逗留していました。しかしながら、一年前とは明らかに違うのです。

どう表現すれば良いのか分かりませんが、同じ景色でも見える色が違うというようなそんな感じです。

そして出会いと別れを繰り返して人は一生を終えるのでしょうね。

夏休みに安井かずみについてのエッセイを読みました。色々な人が彼女について語っています。

はっきり言って、今は読んだことを後悔しています。

あれほど当時まぶしかった人にもこんな事があったのだと知ったとき、知らなければよかったという気持ちになりました。

私は一度だけ彼女を実際に見たことがありました。まるで女王のような豪華さで周りの花よりさらに一際輝いていた事を思い出します。

それから数十年たって私たちも彼女の好きだった、カパルアに行くようになりました。

実は彼女がカパルアに家を持っていたことを知らなかったのです。最初それを知ったとき、「あれっ」という感じでした。そう、彼女の華やかさと、カパルアの何にもないそしてどこまでも落ち着いている景色がマッチしなかったからなのです。

でも今は少し分かる気がします。きっと、彼女も一人の人間だったのでしょう。

次にカパルアに行った時に私の目にはあの南洋松とどこまでも深い青がどんな気持ちにしてくれるのでしょう。