中国の貯蓄率が高いと前のブログでも記載しましたが、もう少し格差社会との関係について考えてみたいと思います。
前の会社で同期の三浦 展氏が書いた「下流社会」はネーミングの功も奏して売り上げを伸ばしましたが、この書に限らず実分でも地方と都会の格差は歴然と存在します。
さらにここ数年の間に読んだアルピン・トフラー著の「富の未来 上下巻」やトーマス・フリードマンの「フラット化する社会 上下巻」を読んで今起きていることが、先例のない物凄く早いスピードで変化していることを思い知らされました。
ですから「変化の中に居る時には変化に気付かない」と申した訳です。
第一の変化は情報量の大きさです。インターネットで世界が繋がる前と今ではケタが2つも3つも違います。中東で起きている市民パワー(ここが問題)の爆発は宗教や軍事力では抑え込めないほど強力になりました。
そしてもう一つの変化は、前述した変化によるお金の流れです。兌換要素としてのお金の役割は変質し、マルクスがいうように貨幣の本質が物ではなく、情報に取り変わったのです。このことは過剰流動性を加速し、お金は人間の意志とは別にそれ自身が意志を持ったものとしてふるまうことになるのです。
知り合いのトレーダーが言っていました。「相場(為替)を動かしているのは人間ではないよ、コンピューターによって定められたアルゴリズムさ」だそうです。
マスコミが格差社会と言いますが、格差があって当然なのです。本来物の価値とは同質ではありません。価格は相対的に決められるものなのです。
考えてみて下さい。山奥で取っ手きた貴重な天然の舞茸のコストは東京と現地の山奥で果たして同じなのでしょうか?同じではありません。さらに東京からハワイに行くコストと離れ小島からハワイに行くコストにして絶対に違うのです。
なのにこれを格差として平準化することを公約に掲げている党がおりますが、冗談でしょうと揶揄したくなります。それらの無意味な平準化のために国民が負担する費用は莫大です。そして気が付いて見れば国民の力は消え失せ、この国は夕日の彼方に沈むのです。
格差という見識はこのお金という物差しでしか計っていない一元的要素です。格差とは呼ばずにライフスタイルの差と考えては如何でしょう?たとえインフラは整備されておらず、不便であるとしてもお金を使わず、のんびりと毎日自然と触れ合う生活が劣っているのでしょうか?
格差とは一元的お金による判断の象徴なのです。
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