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2011年2月6日日曜日

大人の休日  志賀高原 焼額山プリンスホテル

当初から小布施に行ったら少し足を延ばして志賀高原に行ってみようと宿を予約していました。

言わずもがな日本最大級のスキーリゾートです。学生時代に一の瀬で住み込みのアルバイトをした経験もあります。丁度今から27.8年昔です。

今回の宿はホテル建設のため資材の搬入でヘリの音がうるさかった焼額山にあるプリンスホテルです。

当時のスキーのホテルの料理はどこも同じようなもので、今でこそ評価は低いプリンスの料理ですが、当時の私達には中々泊ることのできない宿でした。

1983年に開業した赤坂プリンスホテル(閉館が決まった)とほぼ同時期に建てられた建物です。

柱や共用部に赤プリと共通のディティールが表れています。30年の時間の経過です。

私達が宿泊したのは比較的落ち着いた東館ですが、メインの西館は国際色豊かです。

宿泊者の4割が中国、2割が韓国、2割がアメリカ・ヨーロッパ系(フランス人が多かった)、残り2割が日本人といったところです。

今後のスキーリゾートの生き残りをかけた一片を垣間見たようです。




小布施 造り酒屋

蕎麦屋で頼んだ燗酒が美味しかったのでふと見ると数軒隣にその醸造元である造り酒屋さんがありました。

暖簾をくぐり、味見させてもらうとどれも辛口に作っています。硝子戸の向こうでは杜氏さんたちによる仕込み作業が進んでいます。

結果、新酒と3年熟成(本当は5年熟成で酒販協会のきまりで3年といっている)を購入しました。後者は熱々燗が向いているとのことです。確かに酒本来の味です。

忘れてはいけません。造り酒屋さんのお味噌と酒粕これがまた美味しいのです。

一足先に横浜に贈ってもらうことにしました。



小布施 信州そば




小布施に来たら信州そばを食べたいとリストアップしていた「」さんはなんと今日は臨時定休です。がっかりです。

その代わりここまでの道中目にした手打ちのお店に入りました。

私も妻も辛み大根のおろしそばを頼みました。それに辛口の燗酒を1号におつまみとして鴨と出し巻き玉子です。

蕎麦の食感はまずまずですが、香りが弱いです。出し巻きも良い色ですが少し甘めです。蕎麦湯は薄くて上品すぎます。鴨は私の(低温調理器のおかげ)方が柔らかくジューシーです。

一番美味しかったのはこの小布施の特産品にしようと有志が育てている辛み大根です。なんと丸一本出てきてすりたてを食しますが、涙が出るほど辛く汁と大変合っています。これは美味しいです。

小布施  わが命何を齷齪




三かく(義理をかく、人情をかく、恥をかく)ない運動推進中の我が身としてはずっと先延ばしにしていた小布施に行ってきました。

観光シーズンはそれなりに忙しいでしょうし、この季節は大変と言われれば大変ですが、寒い中も風情があって宜しかろうと出向くことにしました。

変化を求める人もいれば、変化を求めない人もいます。街も同じです。小布施はいつも通過するだけだったので今回初めて街を観る機会を得ました。この街は京都の正反対のような迷路の街です。町中に辻があります。

この街もご多分にもれず高齢化が進んでいるようです。地方の人は都会が良く見えるようですが、地方は地方の良さをもっとPRすべきです。仕事にはなりませんが私の正直な感想です。

長野までは新幹線で早かったのですが、その後の長野電鉄のアクセスが悪く色々と話しこんだら結構な時間になってしまいました。

長野電鉄 ローカル線

長野から湯田中まで走る長野電鉄に乗りました。

ニュースで須坂から屋代までの通称屋代線廃止に嘆く住民の映像が流れていましたが、この線とてとても稼働率が良いようには思えません。沿線に大学があるからかジャージ姿の学生とかなりの高齢者が大半です。

電車のつり革を観ると東急百貨店と書かれています。長野駅にも同店はありますが、この車両も良く見ると大分前に東横線や田園都市線で使われていた車両のようです。




所用の小布施駅に降り立つと栗林の向こうに信州の北信五岳(飯縄山、戸隠山、黒姫山、妙高山、斑尾山)が連なって見えました。

2月の初旬というのに春のような日差しです。


2011年2月2日水曜日

トップは動くべし

2月の中旬以降は契約の最後の仕事が詰まっており、ならば杉花粉の前と億劫がっていた小布施の仕事も楽しみむことにして明日出発します。

するとどうでしょう、あまり期待していなかった別の比較的大きな仕事が入りました。トップが吉方に動くと物事が動き出すといいますが、本当にそうです。

マウイに行く前に仕事が急に忙しくなるのと似ています。

ただ、この仕事は日本全国に行かなければならず、時間と手間も掛りそうです。しかし、それを楽しむ余裕で行きましょう。6月は4月に比べて比較的に暇とSパパのジュネーブのお誘いに返答しておりましたが、この仕事が動き出すとどうなるか分かりません。

仕事は人の縁で始まります。そして真摯に勤めあげればその縁は続きます。山口県にも近々行かなければならないかもしれません。仕事はのんびりとしたいと思っているのですが中々そうは問屋が下ろしてくれないようです。

齷齪は嫌いなのですが・・・・・・911とゲレンデの使い分けで飛び回る日が多くなりそうです・・・・

驥尾に付す アメリカの債権格付け法


1970年代に三井信託銀行証券部が翻訳し日経新聞が発刊したこの本は残念ながら絶版となっていますが、その翻訳及び本書の企画を上奏し、事実関係の称号や翻訳全体の平仄を整えたのがSパパなのです。訳者前書きにもその事がはっきりと記されています。Sパパよりお借りして暫しお勉強であります。

本書の中ですでに1970年代のアメリカも実は借金まみれの体質であることが指摘されています。さらにS&Pのオープンさに比して、ムーディーズの情報の閉塞性など今と何ら変わりありません。

私はこのことに疎くて」と発言した一国の総理の知識の寂しさを憂う前にもう少しこの本を読んで勉強でもしてほしいものです。とにかくこの時代からアメリカの金融政策についてきちんと研究している人たちがいるのですから、後輩は学ばなければなりません。驥尾に付すとはそういう意味です。