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2010年5月28日金曜日

芦田宏直氏 フロー中心の自己

日経BPネットに芦田宏直氏の連載が始まりました。大変面白い記事があったのでご紹介します。
詳細は日経BPネットでご確認ください。私が常日頃感じていた事を綺麗に明確に言い表しています。今後の連載も楽しみです。

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以下日経BPネットの抜粋より

フロー中心の「自己」が肥大化
 現在のハイパーメリトクラシー主義(コミュニケーション能力論、問題発見・解決力、社会人基礎力、人間力など)が改善の見えない教育現場と親和性が高いのは、教育の出来不出来を生徒、学生の個人的な素因に解消できるからだ。自分で「選んだ」科目や進路の出来不出来は自分(生徒・学生本人)にあるというように。教員の教育力は永遠に棚上げにされる傾向になる。
 しかし、そんな重い選択の責任を取れる自己など生徒や学生に存在するわけがない。「学校」教育の受講者(生徒、学生)がいわゆる〈顧客〉ではないのは、彼らが消費者的な主体性以前の学習者だからだ。これから自己を形成する若い世代に、「自己」など存在しない。
 しかしこのような空虚な「自己」主義を不断に強化する装置が携帯電話やITオンライン環境だった。
 現在の40歳以下の(かつての)若者たちは、通信手段の個別化、24時間化を通じて、その反作用のようにして「自己」を獲得していった世代なのである。私はそれをとりあえず「オンライン自己」(の世代)と呼んでおきたい。


 Input(ストック)よりは、output(フロー)中心の「自己」が肥大化している。つまり他者が自分をどう思っているのかばかりが前面化する。「自己」はその反作用でしかない。


 他者が自分をどう思っているのかなどという悩みは、その他者が少数者でしかない場合にのみ可能なこと。携帯電話の着信表示やハイパーリンクの選択的な情報化は、自己拡大の契機と言うよりは、既知なものへの心理的な安定を獲得するためのものでしかない。


 既に知っているものの知識拡大とは奇妙なことだが、自分に肯定的な要素を持ったものだけを過剰に獲得しようとする傾向のことである。逆に言えば否定的な要素は過剰に排除する。非通知の着信には一切反応しないように。つきっぱなし」の個人が前面化している



 現在の40歳以下の(かつての)若者たちは、そうやって自己を形成してきた人たち。言わばコミュニケーション過剰反応症とでも言うものに自己形成を委(ゆだ)ねてきた人たちなのである。土井隆義(筑波大学・社会学)が言うように「『個性』を煽られる子供」時代をすごした大人たちである。

 iモードは、初めて設定操作なしに(その初期には電話番号が自動的にアドレス名になっていた)、インターネットメールを手のひらにもたらした。iPhoneは初めて(実践的に)フルサイトブラウジングを手のひらにもたらした。
 「手のひら」というのは、個人化と24時間化を意味している。いまではベッドの中にまで、そして眠りにつく瞬間まで、そしてまた眠りを妨げるまでにインターネットとメールが個人の生活の中に入り込んでいる。

 そしてiPadはPCそのものを机の上から解放し、パソコンワークそのものをベッドの中にまで拡大しようとしている。そうやって個人の意識は絶えず覚醒を強いられている。「絶えず」というのはまるで電気のようにフロー状態の覚醒を強いられているということだ。


 かつて昭和30年代(前半)以前の人たちは自宅を出るときには、電気メーターを見て自宅を後にした。「つきっぱなし」の電灯が存在していないかの確認のためだった。当時、電流が流れっぱなしの家電など存在していなかったのである。


 電気冷蔵庫が「つきっぱなし」の家電の最初だったが、今ではそれが「サーバー」になっている(私は、IT時代というのは依然として電気の時代の比喩でしかないと思っている)。そうやって個人もますます先鋭化し、「つきっぱなし」の個人が前面化している。個人がフローになっている。対面機能主義(functionalism)=行動主義(behaviorism)、つまり「オンライン自己」論が、現代の自己啓発論、コミュニケーション論の諸前提を形作っている。


 この連載では、「オンライン自己」現象の諸問題とでも言うべきものを扱っていきたい。次回は「iPad現象とは何か」。
(文中敬称略)

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