とあるきっかけで大学で教鞭をとる(その当時は在籍していたが今は退官された)方と同郷のヨシミも加わってお話させていただく機会がありました。
そのとき上州名物の話になり、私が赤城山の裾野のなだらかなことを上毛カルタという地域の名産や景勝をうたう句を引用して
「裾野は長し赤城山ですね」と申したところ、
その先生は「いや私のところからは裾野は長しじゃなく、裾野は見えないんだよ」
「その句は赤城山の東西から読んだ歌で、とても限定的なんだよ」
そうつまり我々は自らのいる位置を中心として捉える傾向があり、事物の判断はほとんどがこの傾向に当たると・・・・
確かに、相対的な感覚というのは我々に乏しいと言わざるえません。
人の好き嫌いがはっきりしている人がいます。以前、申し上げた某有名デザイナーの奥様がエールフランスのビジネスラウンジで隣席で待合の時、その当時、連勝していたプロゴルファーのI氏に対して、
「あの人、花がないわね」「花がなけゃだめよ」と言ったことが印象的です・・・
だって、花があるかないか、ダメかどうかどうして決められるんですか?
己の極小の経験と倫理観に置いてそう発するのは独裁者のそれと同様ですね。
皆さんこんな批評ばかりしていませんか?恥ずかしいですよ・・・・
私なんかその好き嫌いさえコロコロ変わるのですから、「花がない」なんて断定はできません。
Conseveとはそもそもその物が減耗、変質、損傷しないように維持務めるとい意味があります。したがって社会、制度、規律などが伝統的で急変しない関係に用いられます。つまり保守的であると。
もともと物事は細胞のアポトースシ同様、最終的には「死」に向かって変異していくものだと考えている私はこの正反対の思考法です。
朝ある事は夜あるとは限りません・・・・・・・
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