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2010年12月27日月曜日

組織と個人 オルテガ スティグレール

経営学を学んだことのある人なら組織論について世の中にその専門書は星の数ほどあることは既知であろう。あえてそのような大上段からとやかく述べるつもりは無い。

ただ、私の周りには大企業の社長、VBの執行役員、大手メーカーのエンジニア、証券会社役員、エアラインの部長等、所謂企業の要にいる人、さらに個人経営者、芸術家、左官屋さん、大工さん、お豆腐屋さん等企業に属さないで働いている人と様々な人たちと会話する機会が多い。

ここでどちらがどうのと言うつもりはない。ただ、オルテガが言う「人間不在の人間でないもの、精神不在の人間でないもの、魂のない人間的なもの、非人間化された人間的なもの」を集団=組織には想起させるものがある。



したがって、それらに属する人たちには思うと思わざるにかかわらす゛集団についての親和性が高い。

オルテガが言うように警察官に一時停止を命じられて止まるのは、己の意志ではない。警察や国家、己に社会的役割を命じているのだ。そして己はこの装置となりえるのである。




ベルナール・スティグレールはデリダとの会話の中で「テレビやインターネットは常時外部世界を家庭内に導き入れる、私達の生活はいっそう孤立し、いっそう個人化してしまう。そして私達は公的交空間と私的空間の区別を失い、家庭内に寛ぐことが出来なくなる。」

そしてこのような結果、領土が形作る国家や市民といった伝統的脱地域化への導かれ、プチ国家とも呼ぶべき、自己や家庭への回帰をもたらす一因となっている。」と警鐘を鳴らしているのである。

「坂の上の雲」を見ていて、ロシアと戦争をする時、相手にやられる前に相手を討つという切羽詰まった国民の心(軍部や政治家)が、まさに「慣れ」「社会的な見えざる手」によって戦争を社会装置化し、国民を太平洋戦争に運んだことを思うと、我が国の制度としての官僚主義は明治より綿綿と受け継がれ存続している事を再確認するのである。

当然、組織との親和性を持たない私ですから、己の社会装置化されることへの嫌悪と反発はかなりのものだが・・・・・

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